発達障害のことと家族のこと

39歳。ADHD診断済み。4歳の息子と猫2匹と暮らす。同い年の夫と別居中。

離婚のこと

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今日で前夫と離婚してからちょうど10年経ちました。

当時はこの世の終わりかという程に打ちひしがれ、痩せこけてしまったのですが、今となっては、離婚して本当に良かった。当時の私、完全に正解!ってな感じです。

 

やっぱり25歳年上の大学教授に愛される女である自分に酔っていたんでしょうね。

付き合ってる段階では。

なんか、谷崎潤一郎の『痴人の愛』みたいな関係を演じることを楽しんでいたというか。

実家の両親に抑圧されていたからなのか、ADHDだからなのか19歳の私の精神年齢は幼く、自我が確立していませんでした。

しかし自分では、私は自立した大人だと思っていた。思い込んでいました。

そんなハリボテの自我は、年上の男性、地位も名誉もある社会的成功者に愛される女の人格を纏うのにちょうど良かったのだと思います。

 

しかし結婚は生活。

酔っているハリボテの自我も目を覚まします。

どうして夕飯ができましたよって呼んでから来るまでに20分もかかるの?

時間がかかるなら「今行く」って言わないでほしいのだけど。

トイレの便座は使った後に戻して。

連絡なしに友達を家に連れてこないで。

テレビで私のことを話さないで。

私の身につけるものにいちいち意見をしないで。

毎日お風呂に入って。

毎日歯を磨いて。

私が外出する時はあれこれ細かく聞いて何度も電話をしてくるのに、あなたは連絡もなしに外泊するなんておかしくない?

夜の外出を禁止するのはなぜ?

結婚したら1人で旅行に行くのは非常識ってなぜ?

あなたが連れて来るお友達が私の容姿を、作った料理をジャッジするのはなぜ?

どうして私の携帯を見るの?

あなたがうっかり手を出した女からのしつこい電話にどうして私が対応しなくちゃいけないの?

女は怖い?なぜ?

私は違うと思ったのに?誰だ比べて?

先生、教えて?

なんでも教えてあげるって言ったでしょう?

 

これだけ言っても流石といいますか、前夫は、一度も鬱陶しそうにしたこともなく、喧嘩になったこともなく、反論もなく、ただただ穏やかに辛抱強く私の話を聞いて、改善策を提示し、反省している私を愛しているから変わるよと言って穏やかに微笑みました。

そして改善なんてされず、反省なんて勿論せずに、私の単独での外出を禁じ、電話やメールを全てチェックするようになり、最後は友人に私を尾行させて「婦人科に入って行った不貞だ」と友人と騒いでいました。

 

心配だから。

愛しているから。

何千回言われただろう。

 

あなたが心配なのも愛しているのも私じゃなくて自分でしょう。

 

散々いい思いしたクセに。

恩知らず。

ブスが調子にのって。

先生がかわいそう。

弁護士を使うなんて卑怯。

 

いつもそうなのですが、卑しい言葉を投げつけてくるのは、よく知らない人。

どうでもいい人達はいつも騒がしい。

虫みたい。

笑ってしまう。楽しそうで。

 

前夫は今でも私に「心配だ」「愛してる」と言う。

全部わかってるのに何もわからない顔をして。

どうでもいい人達は、今も変わらずどこかの誰かを非難している。

楽しそうに。

 

10年経った。

どの結婚も離婚もしてよかったな。負け惜しみじゃなくて、どうせ命の蝋燭燃やすならやりたいようにやるのがいいから。

 

写真の猫は、さっき私の腹を前足でモミモミしていた飼い猫です。

かわいい。

小学校が辛かった話

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朝、職場に着いて、自分のデスクでパソコンを立ち上げている間に紅茶を入れに行って戻り、目を通す資料をパラパラと見ながら椅子をくるくる回す。

同僚が、子宮筋腫を取るから来週から数日休むね〜貧血がひどくてさ〜病院行ったら大きなのがあってびっくりしちゃったあ〜と間延びした歌うような調子で話している。

窓の外からは救急車のサイレン。

埃っぽいオフィス。

上司のつけている香水の匂いが、エアコンの風に乗ってこちらにまで香ってくる。

それでね〜私の父が獣医でしょう、子宮なんてもう取っちゃえばいいんだよってね〜軽く言うもんだから頭にきちゃって、ひどいわよね〜もう役に立たないなら取れなんてね〜

あ、朝一会議だっけ?

「あ、はい」

 

会社は楽だなと思う。

学校は息苦しかったなと。大学は違うけど。

 

小学生の頃が一番息苦しかった。

とにかく、何をすればいいのか、どこに行けばいいのか、わからなかった。

子どもが余りにもたくさんいて、すごくうるさくて、汚くて、動き回っていて、ごちゃごちゃ固まったり、離れたりしていて、とてもこんなところにいられないと思った。

しかも子どもは私に話しかけてくる。

粗野、下品、未熟、意地悪、猿みたい。

誰かと仲良くしたいなんて思うわけない。

子どもなんて大嫌い。

自分も子どもなのに心からそう思っていた。

 

女の子達は、誰と誰が仲良しで、誰と誰が仲が悪くて、同じ筆箱を使ってるとか、誰だ休み時間に遊ぶとか、仲間はずれとか、泣いたとか、あの子ちょと嫌なところあるよねとか、私も前からそう思ってたとか、一緒にトイレに行くとか、そのペンかわいいとか、そんなの学校に持ってきちゃいけないんだとか、そんなことをなんだかいつも話していて、その全てに私は興味はなくて、話したいと思わなかった。

みんな馬鹿みたい。

そう思っていた。

教室の隅で。

 

男の子達は、とにかくうるさかった。うるさい汚い近づかないで。

どうして私の箸箱を取って逃げるの?返してと追いかけると男子トイレに逃げこんで、私が男子トイレに入ると「わ〜変態〜エッチだ〜」と騒ぐ。

最悪。

猿以下。

 

そして先生達。

いろんな先生がいたけれど、皆口を揃えて「お友達と仲良くしなさい」「大きな声でお話ししなさい」「皆んなと一緒に行動しなさい」「もっと元気よく」「もっと素直に」「もっと明るく」と言った。

確かに明るく元気で大きな声で喋る子は先生達に可愛がられていた。

でもそいつ、先生の見てないところでおとなしい子いじめてるよ。

先生は扱いやすい子どもが好き。

見たいところしか見えない目、面白くない冗談、子どもを管理することを支配することと履き違えている先生もいた。

優しく子どもをよく見ている先生もいたけれど、嫌な先生の方が多かったように思う。

 

女の子も男の子も先生もいつのまにか私のことを「変な子」「変わり者」「面倒な子」としてラベリングしていた。

授業中窓の外ばかり見ていても

歌のテストで歌わなくても

いつも体育を休んでも

忘れ物が多くても

いつもプリントをなくしても

ああ、あの子ねって感じ。

 

3年生の頃に気の合う友達ができて普通に喋るようになるまで、完全にやばい子どもだった。

学校は、自分は普通のことができないダメ人間なんだと骨身に染みこませるために行っているようなものだった。

30年も前だから当然、田舎の学校に発達障害の知識のある教師はおらず、テストはよくできたから「やる気がない」「怠けている」「先生をバカにしている」と散々言われた。

「やる気がないなら帰れ!」と言われて家にトボトボと帰ったこともある。「本当に帰ってどうする」と言われてひどく怒られたけど、意味がわからなかった。

先生は、やる気がある子どもが大好き。

 

そんか学校に馴染めない私がよく話したのは図工の先生だった。

生まれたばかりの弟の話を図工室にしに行ったのを今もよく覚えている。

「私がミルクを飲ませてあげたの」「名前はお父さんが考えたんだよ」「髪がふわふわなの」「くわ〜ってあくびをするのがすっごくかわいいんだよ」

初老の女の先生は、ニコニコ笑って聴いてくれた。

 

皆んなと同じこと、やる気、大人の思う子どもらしさ、そんなことが評価される意味のわからない場所。

 

当時もし療育を受けられていたなら。私はもっと楽に生きられたんじゃないかな。

もしかしたら弟は死ななかったんじゃないかな。

ありのままでいいと言ってくれる居場所を子ども時に見つけられたなら。

 

そんなことを考えているうちに長い会議が終わった。

ここはいいな。

私は大人になたから、自分の居たい場所でしたいことができる。

よかった。

 

 

 

穏やかな母親

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息子が生まれてからずっと心がけていることがありす。

彼の前で穏やかであること、笑顔でいること。

誤魔化さないこと、誠実でいること。

息子が安心できる親でいること。

 

私の母は非常に感情的な人で、気に入らないことがあれば、自分の不機嫌をとにかく撒き散らすために、ヒステリックに怒鳴る、物にあたる、大きな音を立てる、殴る、摑みかかるということが毎日のようにありました。

母にとっては自分の機嫌が何より大事で、周りはもっと自分の機嫌に敏感であるべきだと考えているようでした。

「ああ〜イライラする!」

「お母さんの顔みたらわからんか?」(わからないか?)

「もっとお母さんのことを考えて動きや!」(動きなさいよ!)

 

今から思えば、軽度の知的障害とADHDの傾向が強い母は自他の境界が曖昧だったのだと思います。

 

自分の思い通りに他人が動かないと気が済まない母。

母の思い通りに動かない私を「キチガイ」と罵る母。

これは今も昔も変わりません。

 

そういえば、弟が自殺して、さすがの両親も少しは弱るかしら?と思って帰省したのですが、全くそんなことはなく、母は葬儀屋、親類、近所の人、弟の友人、もちろん私にもキレ散らかし、あわや通報かというところまでいっていました。その燃え盛るようなパワーは私の幼少期から変わらず、最愛の息子の死、しかも自殺、すら彼女のゴーゴーとした不機嫌の炎を消すことができないのだと唖然としました。

父も、通夜と葬儀ではしんみりとしていたものの、四九日の法要の席では、仕事関係の方とくだらない話をし、下品な冗談で狂ったように笑っていました。

まるで弟の死なんてないかのように。

 

こんな両親の元で育ったので、私は人の顔色を伺うクセが随分大きくなるまで抜けませんでした。

 

子どもにとって親の不機嫌は恐怖以外の何者でもありません。

私のせいで親は不機嫌なんだ。

私はダメな子どもだ。

私が悪いんだ。

怖い。

早く終わって。

逃げたい。

居場所がない。

私が悪いんだ。

 

子どもの頃は、怒り狂う母に壁際に追い詰められ、髪を引っ張って顔を上げられ、顔に唾をかけながら、私がどれほどダメで頭がおかしく、母にとって忌むべき存在かを何時間も聞かされた。

時折「これからどうすればいいかわかる?」などと質問が挟まれ、答えを間違うと母は般若のような顔になり説教の時間が延びた。

 

母がキレる原因は、私が友達と遊び妹と遊ばなかった(妹はすぐに癇癪を起こすので遊びたくなかった)、祖母が作った夕飯をおいしいおいしいと2度も言った、せっかくブラウスを買ってきてやったのに成長してサイズが合わない…など本当になんでもないことでした。

 

そんな母を私は嫌いでした。

幼児の頃は恐怖でしたし、成長して分別がついてからはからはうんざりでした。

まただよ。

狂ってる。

そう思っているが顔に出てしまうと、母は私を「心がない」「冷たい人間」「頭がおかしい」と言いました。

 

母親のようにはなりたくない。

私は絶対に不機嫌で息子を支配したりしない。

そう思って、私は息子の前でいつも穏やかで、フラットな母親でいました。

夫が双極性障害閉鎖病棟への入退院を繰り返し借金で自宅が差し押さえられても、夫が出て行っても、お金がなくなっても、ストレスで体重が8キロ減り持病が悪化して入院を勧められてもお金がなくてできなくても、ヤクザみたいな不動産屋が靴のまま自宅に入ってきて怒鳴っても、私は息子の前では穏やかに微笑んでいました。

恐怖、悲しみ、痛み、困惑、そんか感情は微塵も顔に出さずに、いつものように「かわいい。大好きよ」と言い、息子への態度は変わらないようにと歯をくいしばって穏やかな声と笑顔をつくりました。

母のようにはなりたくなかったから。

 

しかし3月、弟の死の知らせがあった時、初めて息子の前で穏やかな母親ではいられなくなりました。

 

息子の存在が見えなくなりました。

 

電話で知らせを受けて、「うわー」と叫ぶ声がして、それが自分の泣き叫ぶ声だと気がつくのに時間がかかりました。

児童公園の砂場にヨロヨロと座り込み、砂にうずくまるようにして咽び泣きました。

息子がその時どこにいたかはわかりません。

ちょうどその時、公園に何かの撮影に来ていたカメラマンと何人かのスタッフが「何かありました?」と寄って来て声をかけてくださったのですが、ヒソヒソと笑う彼らに瞬時に憎しみが湧き「弟が死んだんです!放っておいてください!なんで話しかけてくるの?なんで?」と関係のない方に酷くイラついてひどいことを言いました。

普段から息子を連れていると知らない方に声をかけられることが多く、有難くもあるのですが、なんでこんな時にまで話しかけてくるの?いい加減にして!と思ってしまった。

息子の前で。

怒り狂う母を見せてしまった。

 

ああ、ダメだ、子ども、子どもの面倒をみないと…とフラフラと立ち上がって周りを見渡すと、息子は少し離れた遊具で小学生と遊んでおり、私が手を振ると笑顔で手を振り返してくれました。

 

そしてこちらに駆け寄り、一言「泣いてもいいんだよ」と言いました。

私が息子が泣くといつも言う言葉。

「弟が死んだの」

と言って息子の前で泣きました。

息子の前で初めて声を上げて感情のままに泣きました。

 

 

 

 

喋れなくなった日

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弟の四十九日の法要のために実家に帰省してました。

特に何とされたとか、何があったわけではないのに、帰宅してから数日はなんだかうまく喋れずにいました。

舌が回らない、言葉が出てこない、詰まる。

 

実家から帰宅した日、息子に絵本を読んでいてもどもってしまってうまく読めません。

 

私は読み聞かせが好きで、図書館で働いていた頃は図書館での読み聞かせだけに飽き足らず、休日に読み聞かせのボランティアをして読み聞かせの腕を磨いていたくらいなので、普段なら読み聞かせの最中に言葉に詰まるのとなんてないのに。

疲れてるのかなと思いました。

 

次の日、取引先の人から電話がかかってきたので出ました。

あれ?

口がぱくぱくするだけで言葉が出てきません。

きちんと話さなくてはと思うと焦って余計にうまく話せず、どうにか絞り出すように相槌だけ打ちました。

どうしたんだろう?

うまく喋れない。

 

息子とは普通に話せましたが、彼が何か言うとその声にひどくイライラしました。

いつもはかわいい息子の声が耳について不快なのです。

私を呼ばないで、話しかけないで、口を開きたくないの、喋りたくないの、疲れてるの、そんな風に思っている自分に罪悪感を感じて余計に口がうまく開けなくてなりました。

息子には申し訳ないのですが「お母さん少し体の具合が悪くてお話ができないの。明日になったら元気になるから元気になったらたくさんお話ししようね」と話しました。

彼は「ふーん、わかったよ」と言って、私をそっとしておいてくれました。

 

午後近くなって夫も一緒に家族で大きな公園に出かけました。

うまく喋れず、表情も硬い。

お弁当を作る元気なんてもちろんなく、のろのろと麦茶を水筒に入れて公園に向かいました。

 

暑い日で、途中で息子の帽子を忘れたことに気づいて取りに戻ったら、汗だくで、もう疲れきってしまって、もう全部が全部嫌になりました。

鏡を見ると疲れた顔をした中年女が汗だくでこちらを見ています。

額に張り付いた髪。

そこだけ場違いにキラキラ光るブルートパーズのペンダント。

なんて顔。

醜い。

かわいそう。

苦しい。

息がつまる。

 

衝動的にブルートパーズのネックレスを引きちぎりました。

 

弟はなんで死んだの?

洗面台に落ちた青い石はとてもきれい。

弟はなんで死んだんだろう。

なんで?

死んだの?

死んだの?

死んだ?

なんで?

青い石。

きれい。

 

息子の帽子を持って公園に戻りテントを張っていると夫が来ました。

 

歩く夫を見て、夫は生きてるうれしいと思いました。

 

 

公園の樹々は新緑が美しく匂い立つようです。

3人で小さなテントに入りました。

夫はいつも私が話しかけないと自分からは私に話しかけません。

何でもない話をして笑いました。

テントの中でごろりと寝そべると樹々と木漏れ日と芝生しか見えません。

きれい。

きれいな緑。

 

夫が息子を連れて遊びに行ってくれたので、仰向けに寝そべり目を閉じました。

いいお天気。

いいお天気だよ○○と弟の名前を口に出してみました。

本当に死んだの?

どこにもいないの?

なんで?

最後に見た時、笑ってたのに。あの日もいいお天気であなた笑ってたのに。

いいお天気。

私もいつかいなくなるんだな。

死ぬってどんなんなんだろう。

いいお天気。

涙がどんどん出てくる。

 

夫と息子が戻って来て、私が好きな喫茶店にみんなで行きました。

息子が眠ってしまったので、夫とボソボソと話をしながら野菜炒め定食とあんみつを食べている途中で、あれ?私喋れてる?と気がついたのです。

「私、弟のことがあって4キロも痩せたんだよ」

あ、普通に喋れてる。

詰まってない、どもってない。

 

夫の話す言葉は感情的にでなく限りなくフラットで、私は練習みたいに息子のこと、弟の葬儀のこと、痩せたことなんかをポツリとポツリと話しました。

 

次の日も喋れました。

その次の日も。

 

喋れなくなった日は終わったようでした。

 

 

 

 

 

四九日

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昨日から実家に帰省しています。

弟の四九日の法要があるからです。

息子は、弟の遺影と骨壷がある一画を見て「○○(弟の名前)死んだの?」と弟の骨に尋ねていました。

 

幼い頃の弟の顔に少し似ている息子。私が生んだ子ども。もうどこにもいない弟。命、茫漠たるもの。

 

弟の使っていた部屋には、彼の服が無造作にかけられ、ヘッドホン、iPhoneの空箱、仕事のシフトをメモした紙、内覧した部屋の間取り図、カバン、サンボマスターのCDなんかがそのまま置いてあります。

まるで昨日までここに居たみたいに。

弟の服からはまだ彼の臭いがしました。

本人はもう骨なのに変なの。

もう骨になって無臭なのに変なの。

骨壷の中の骨よりハンガーにかけられた服の方が弟に近い気がしました。

 

弟が命を絶つのに使ったであろうベルトが置いてありました。

生きている時に使っているのを見たことがあるな。

ロープを用意してしなかったってことは衝動的だったのかな。

計画的でも衝動的でも結局どちらでも助けられたんじゃないかと思ってしまうな。

それにしてもちょうどいいベルトだな。

ねぇこれいいね。使いやすそう。私がする時も貸してくれない?

いいよ〜僕はもう終わったから〜お姉ちゃん使って〜ってたぶん言ってくれるな。ふふふ。それなのにもう居ないのか。

変なの。

全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然全然信じられない。

 

弟は感情を出すのが苦手だった。

苦手というか、自分が感情的になってもどうせ誰もきいてくれないと思っている節があった。

機能不全家族の優しいお利口さん。

だから弟が本当は何を考えていたかなんてわからない。

私に対しても優しいお利口さんという役割を演じていたのだろうから。

 

似た年恰好の男の子を見かけると、悲しいと思う前に涙が面白いほどダラダラ流れる。

ごめんねと思う。

かわいそうにと思う。

どうして私は生きているのだろうと思う。

今生きてる人、いつか全員死ぬのに死がこれほどまでに悲しいのはなぜだろう。

当たり前のことなのに。

 

弟か死んだこと、もう二度と会えないこと、それより、死を選ばざるを得なかった程に追い詰められていたことがかわいそうでならない。

 

そんな1人でさ、怖かっただろうに、もうこれしかないって思ってさ、そんなのかわいそうだよ。

かわいそうって思ってしまうよ。

 

生きづらかったのだと思う。

おそらく私以上にADHDの特質は強かったし。

難しいことが苦手だった。

母に溺愛されていた。

争いごとが苦手でいつもへらへらと笑っていた。

いつも誰かに叱られていた。

ちゃんとできないことを誤魔化すことも下手だった。

ボランティアに熱心だった。

水泳が得意だった。

努力家だった。

友達思いだった。

 

社会に適応できる人がいれば、同じだけ社会に適応できない人もいるでしょう?

適応できるのが、うまくやれるのが偉いとか優れているわけではないでしょう?

そんなのその人の一面に過ぎないでしょう?

社会なんてクソだよ。

別に適応する価値なんてないよ。

ねぇ、そうでしょう?

 

お姉ちゃん、僕、難しいことはわからへんねん。

ごめんな。

 

そう言うかな。

 

じゃあ、わかりやすく言うよ。

 

あなたはそのままでいい。

誰がなんと言おうと、どんな困ったことがあろうとそのままでいいんだよ。

死ねほど追い詰められてもそれでも何も悪くないんだよ。

ただ、助けてって言えるようにすればいいんだよ。

 

 

だからいかないで。

 

 

 

 

 

 

一カ月経った

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さっきベランダに出て洗濯物を干しました。

息子の保育園用のシーツと布団カバーです。通常は週末にしか持って帰ってこないのですが、お昼寝中に隣の子がお漏らししてしまい息子の布団も濡れてしまったので持って帰ってきました。

夜風にはためくシーツからは洗剤の匂い。

風はもう全然冷たくなくて、春の生温い風で、ああ季節が変わったんだなと思いました。

桜も散ったし。

 

弟のことを思いました。

もう何千回と考えた、何が辛かったのだろうということ、そんなに辛いのとがあって1人で死んでしまうなんてかわいそうにということ、助けてあげられなくてごめんということ、幼い頃の弟のこと、私が8歳の時に生まれた弟がとても可愛くて小学校の先生に毎日弟の話をしていたこと、母親に溺愛され父に押さえつけられ反抗期もなくずっと生きづらそうにしていたこと、私のことは好いてくれていて実家と絶縁した後も連絡をくれたこと、モルモットを飼っていたこと、ハムスターを飼っていたこと、2匹をとても大事にしていたこと、父の口利きで自衛隊に入隊して被災地に派遣されてから呑気で大らかな性質がなくなってしまったこと、被災地のぶくぶくの水死体より「女子供より俺を助けろ」などと暴言を吐く年配の男性達の対応が辛かったと言うので私がそんな奴らロクな死に方しないし特定して今からお姉ちゃんが社会的に殺してあげるから大丈夫というと相変わらずだと笑ったこと、優しい子だったこと、いい子だったこと、あまり賢くなくて大人しくていつも周りに気を遣っていたこと、盲導犬の訓練士になりたいと言っていたこと、優しいこと、動物が好きなこと、優しい、弱い、かわいい弟だということ、ずっといると思っていつでも話せると思って話さなかったこと、私は愚かだということ。

 

今日で弟が死んで1カ月が経ちました。

信じられないことに、未だに弟の死が信じられないでいます。

1カ月も経ったのに。

来週、弟の四九日の法要があり実家に帰省するのですが、その時にこそ、今度こそ、弟が居て、ごめん、驚かして、生きてるから泣かんといてと言ってくれる筈だ、きっとそうだ、絶対そう、と思っているのです。本気で。

いかれてるってこと。

骨になったことを知ってるのに。

 

死を悲しむって救いがないね。

考えても行き止まり。

でもそれでいい。

止まっていたい。

悲しいままでいたい。

最後に撫でた冷たくなった弟の髪の感触を思い出して可笑しい気持ちになる。

生きてる時は髪なんか撫でなかったのに、生きていたら、お姉ちゃん何してんの、ちょっとやめてーやと笑うでしょう。神妙な顔をして髪を撫でて可笑しいね。

白髪なんて一本もないような年でいってしまって、お姉ちゃんはとても悲しい。救えなかったのに悲しいと思うことを許して。

喪の作業

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あいも変わらず、弟の死を受け入れられずに七転八倒しています。

七転八倒しながらも仕事に行き、家事をし、育児をし、休日にはお花見に出かけるなど楽しい時間を過ごしたりもして、夫の優しさを嬉しく思ったり、息子と笑い合ったりと日常を生きています。

突き上げるような悲しみと喪失感と共存しながら。

 

それにしても信じられない。

信じられないのに悲しい。

こんな急に世界が終わるみたいなことがあるだなんて。

そして私は悲しんでいる自分を軽蔑している。

弟を救えなかったくせに。

軽んじていたくせに。

おまえが大事にしていたら死ななかった。

おまえはのうのうと生きてるじゃないか。

笑ってるじゃないか。

悲しいなら、ごめんと言うなら、首を絞めて死んでみろ。

できないなら泣くな。

かわいそうな姉に酔うな。

救えるのに救えなかったくせに。

 

 

 

学生の頃に一般教養の授業で「喪の作業」というものを習いました。

 

確かフロイトが発案し、イギリスの精神分析学者ジョン・ボウルビィ John Bowlby(1907-1990)が喪の作業を喪の4段階、或いは悲哀の4段階として具体的に記述し一般化したのだったと記憶していましす。


ボウルビィは、第二次大戦後の戦災孤児の調査や、乳幼児と親の関係の研究の成果を踏まえ、精神分析のみならず、動物行動学の知見の援用、統計的手法の採用等によって、喪の作業が4段階を経ること、さらにはどういう場合に喪の作業が失敗して病理を生ずるか、を明らかにしました。

 

参考文献 野田正彰『喪の途上にて』第3章(1992年刊、岩波書店)

 

 

喪の作業をご紹介します。

自死から私のブログに辿り着いた方のご参考になれば。

 

こころとからだの変化の後、年月をかけながら大切な人の死を受け入れる過程があります。これを「悲哀の営み」または「喪の作業」といい、4つの段階に分かれます。


第1段階:情緒危機の段階
大切な人の死は激しい衝撃となるため、直後数週間は、興奮したり、パニックになったり、無力感でいっぱいになったりします。「何かの間違いでは」「死んだことが信じられない」「今にも会えるのではないかと思う」など、大切な人の死を受け入れることをこころが拒否した状態や、「涙も出なかった」など感情が麻痺したような状態になることもあります。


第2段階:抗議・保持の段階
数ヶ月から数年の時をかけて、失った大切な人をこころのなかでなんとか取り戻そうとしたり、ずっと持ち続けようとしたりします。「まだどこかで生きているのでは」など、現実にはあり得ないと知りながら、さまざまな空想をします。また、この時期に怒りや不当感を感じることが多いです。「なぜこんな目にあわなければならないのか」といった不当感に加えて、「〇〇のせいで自殺したのだ」など怒りが他の人に向いて責めたくなったり、「私のせいだ」と自責感・後悔の念にさいなまれたりします。


第3段階:断念・絶望の時期
もはや失った大切な人が永久に戻ってこないという現実を認める段階です。絶望と失意に向き合うため、ひきこもるような気持ちやゆううつで無気力の状態となりやすいです。


第4段階:離脱・再建の段階
苦しい喪の作業を経て、大切な人の死を受け入れあきらめる段階です。失った大切な人からこころが離れ、自由になります。悲しみは残っているけれど、なんとか持ちこたえられるようになります。以前と同じという意味ではなく、苦しい体験を踏まえた上での新しい生き方や人とのつながりにもとづくこころのあり方を見出そうとします。以前よりも自分自身の人生を大切にしたり、他の人への思いやりが深くなります。
この4つの段階を少しずつ進みながら、時には行ったり来たりしながら、それぞれのペースで大切な人の死から回復していきくと言います。

 

私はまだ第1段階です。

そしていつか自分が第4段階に進むなんて信じられません。

だって楽になりたくないから。

受け入れたくないから。

 

もう4月11日なのに、あれ3月じゃなかったっけ?と何度も思います。

確か昨日まで3月だったのにって不思議に思うんです。

弟が亡くなった日から時が止まったみたいな感じで、何度もあれ?と思う。

 

天国なんて信じてない。

死後なんてない。

もうどこにもいないだけ。

 

でも確かにいたでしょう。

生まれてきて一緒にいたでしょう。

笑っていたでしょう。

楽しいこともたくさんあったでしょう。

楽しいことがあなたの天国だったらいい。