発達障害ちゃんと赤ちゃん

ADHDのこと、夫のこと、息子のこと、実家のこと。

かわいいかわいい猫のこと

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猫は死んでしまった。

わたしの腕に顎を置いて息を引き取った。

 

最後まで死ぬつもりなんてないように見えた。

歩こうとして、力が入らなくてフローリングで足が滑って歩けなくて不思議そうにしていた。

どうして私があるけないの?

そんなはずないのに!

と不満げだった。

 

体を横たえて、もう呼吸が不安定になり、たまに足が痙攣する、でも猫は死ぬつもりなんかさらさらないように見えた。

しかしも不安そうではなかった。

少しも怖がってなかった。

私は「大丈夫だよここにいるよ。しんどいね。ゆっくり寝たらよくなるよ。ゆっくりねんねしようね。大丈夫だよ」と言いながら猫を撫でた。

怖いのも心配なのも私の方だった。

大丈夫だよと自分に言い聞かす。

猫は死ぬのに何が大丈夫なのか1ミリもわからないけど。

 

猫は、大きな息をひとつした後、息をしなくなって、私は狂ったように「息をして!息をして!」と声を上げた。

死んでほしくなかった。

もしかしたらまた元気になるかもしれないとどこかでまだ思っていた。

息をして!と私が叫ぶと猫は息を吹き返してくれた。

嬉しかった。

大好きだと思った。

でももうこれ以上苦しめてはいけない。

死際は皆生と死の狭間でもがく。

これまで見とってきた人達もそうだった。

楽にしてあげないといけない。

途切れ途切れの呼吸で上下するお腹、温かな慣れ親しんだ毛並みの猫のお腹をゆっくりゆっくり撫でて、耳元で「ネロ、疲れたね。頑張ったね。おやすみ。また一緒に寝ようね」と言った。

呼吸が止まって、瞳孔がぐわーと開いた。

死んだ。

ああ、死んでしまった。

手足がバラバラに散らばりそうな感覚に耐えるので精一杯で、しばらくじっとしていた。

ノロノロと立ち上がって猫の死水に汲んできてあった水をごくごくと飲んだ。

ぐんにゃりと伸びた亡骸を胸に抱いた。

かわいいかわいい大好き。

胸の上に乗せて布団の上に寝そべった。

かわいいかわいい大好き。

ダラダラと涙が出てくる。

ずっとそうしていた。

 

夕方になって保育園のお迎えの時間になると、そっと胸から下ろして、履いていたウールのスカート脱いでそれで包んだ。

寒く寂しくないように。

 

保育園の迎えから帰宅しても猫はバスタブの中には行っていなかったからホッとした。

ホッとして、泣いた。

息子に泣いている姿を見てを見せたくないなで、風呂場のバスタブの中に入って声を殺して泣いた。

風呂の掃除をしながら泣いた。

 

泣き止めた時、私は死ぬことが少しも怖くなくなっていた。

今も不思議と全く怖くない。

死は、ネコが尻尾をピンと立てて、私の前をすいすい歩き、こっちだよと誘ってくれるなんだか良いもののように思える。

 

 

かわいい猫のこと

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猫が元気になったなんて浮かれてブログを更新して、だって、もう大丈夫だって思ったから、また悪くなって、まさか死んじゃうなんて思わないから。

急性腎不全で動物病院に駆け込んだ時、心づもりをしておいてくださいと言われた。

でも猫は元気になった。

血液検査の結果も大丈夫になった。

ご飯をおいしそうに食べるようになった。

大丈夫だと思った。

高い高い治療費を払ったのだから、絶対に治してほしくて仕事を休んで大学病院まで来たのだから。

治ったんだ、そう思った。

でも猫はまた食べなくなった。

食べたいのに食べれなくて、何度もいつもご飯が置いてある場所に行って、お皿の周りをクンクンして、少し前には食べてくれたマグロのお刺身を入れても、一昨日はこれなら食べられた赤身の牛肉を入れても、大好きなはずのチュールを入れても、子猫のころから好きな金の出汁カップを入れても、食べ物に口をつけなくなった。

わたしの大事なこの猫は、食欲旺盛で、缶詰を開ける音が聞こえると一目散にかけてきたのに。

たった3週間前まではそうだったのに。

ご飯ご飯と可愛らしい声でわたしに大好きなチュールをおねだりして体をすり寄せていたのに。

ほんの少し前までは。

元気だったの。

ほんの少し前までは食べて元気だったの。

 

食べない猫は肝リピドーシスを発症して、肝臓が脂肪肝になってしまったので、脂肪肝を治すために、どんどん栄養を与える必要があった。

食べたいのに吐き気で食べられないかわいそうな弱った病気の猫に、無理矢理チューブで流動食を流し込む必要があった。

強制給餌という行為だ。

わたしがしなくてはいけなかった。

猫は弱った体でやめてやめてと逃げた。それを捕まえてバスタオルでぐるぐる巻きにして口にシリンジで流動食を流し込む。

全力で抵抗してくる猫を押さえ込み、口を開けて何度も流し込む。

一度に50カロリー分の餌を流し込まなくてはならない。

猫の口元がドロドロの餌で汚れる。

やっと流し込んでも誇り高い猫は屈辱的な餌を唾液を一緒に出来る限り吐きすてる。

「どうして?食べないと死ぬのに!どうして吐くの?」

猫は、そう言うわたしの顔を見据えてから、フイと別室に行く。

わたしは今日の分の与えるべきカロリーを計算して、今度は何時にこれだけあげなくてはと餌の量のことばかり考えていた。

食べさせたら治ると信じていたから。

我慢させるのは今だけだと思っていたから。

 

猫は強制給餌を始めてから、お皿の周りをクンクンすることがなくなった。

もうご飯を食べたそうに何度も食事の場所に行くのもやめてしまった。

わたしを見ると逃げるようになった。

寝室では強制給餌をしなかったので、わたしが寝室にいると安心した様子で甘えてきた。

腕枕をして眠り、眉間を撫でらぐるんぐると嬉しそうな声を出した。

 

今だけ今だけまたすぐに元気になるから。

毎日そう思って強制給餌をした。

毎日必要なカロリーを必ず与えた。

毎日体重を測った。

そうしていれば、元気になるはずだった。

体重は増えていたし、血液検査の数値も改善していた。

なのに猫は元気にならなかった。

日に日に歩かなくなり、ある日、これまでにはそんなところに行ったことなんてないのに風呂場のバスタブの中に行くようになった。

寒いからと布団の上に連れて行っても、またバスタブの中に戻る。

 

あ、これ死ぬ前のやつだ。

ずっと前に町田康の猫のエッセイで読んだことがある。

猫、死ぬんだ。

 

バスタブの中から私の顔をじっと見上げる猫をまだ生きている猫を見て「死なないよね?」と言った。

猫は香箱を作りバスタブの中で動かない。

怖い、と思った。

猫が死ぬのが怖くてたまらない。

しんしんと寒い風呂場。

幾ら餌を流し込んでもお腹ばかりが不自然に膨らみガリガリのままの猫。

わたしのかわいい猫。

死ぬの。

あなた死ぬの。

まだここにいるのに。

餌を流し込めば元気になると医者は言ったのに。

数値は改善してると。

そうだ、大丈夫。

大丈夫。

大丈夫。

猫を持ち上げて寝室に行って、猫を胸の上にの乗せて布団に入った。暖かい布団の中で猫はちゃんと温かかった。

撫でた。

背中を頭を顎の下を撫で続けた。

猫は喉を鳴らした。

「お風呂場よりお布団がいいでしょう?ここで一緒に居よう?暖かくていい気持ち。ね?ここで一緒に居よう?わたしとお布団に入るの好きでしょう?一緒に居ようね。一緒に居てね」

そう言いながら撫でた。

猫は喉を鳴らしながら眠った。

息子を預けている保育園に迎えが遅れると連絡を入れた。

4時間ほどだろうか、辺りが暗くなるまでわたしの上で猫は寝ていた。

温かい体で安心して。

 

息子を迎えに行き帰宅すると猫はまたバスタブの中にいた。

泣いてる私の顔を見上げた。

きれいな宝石みたいな目で。

息子が保育園であったことを喋り続けている。

息子の生まれる3年前から猫とわたしは一緒なのに。ずっと一緒なのに。

唐突に息子が異物のように思える。

わたしと猫だけの閉じた世界をこじ開ける異物みたいに。

もちろん、そんな思いは態度に出さない。

わたしは母親だから。

母親という存在に伴う、責任、役割を全うしなければいけない。

 

「お母さん、猫、どうしてお風呂にいるの?」

「知らない」

「何にでも理由があるから一緒に考えよう。考えることって大切だよお母さん!」

「考えてもわからないの、ごめんね」

「お母さん、僕が考えてあげる!」

「ありがとう」

「どうして泣いてるの?」

「悲しいから」

「どうして悲しいの?」

「わからない」

どうして悲しいのだろう。

猫の体重は増えてるのに、血液検査の数値も改善してるのに、バスタブにいるのだってきっとただの気まぐれなのに。

猫が死ぬわけないのにどうしてわたしは悲しいのだろう。

死ぬわけないのに。

そうでしょう。

ここにいるのに温かいのに。

 

 

 

 

 

ずっと温かい体で私の側にいてほしい

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もってあと数日と今日獣医に言われた猫が私の胸の上でぐるぐると喉を鳴らしている。

電車を乗り継いで連れて行った大学病院の獣医師がもうここまできたら何もできないから最期はおうちでと言ったのだ。

「死ぬんですか?」

と尋ねたら獣医は口を噤んだ。

死なないよね。

 

胸の上の猫は温かい。

ガリガリに痩せた体で口からは舌が出ているけど、温かいし、撫でると嬉しそうに頭を私の手のひらに押しつけて目を細める。

「いい子だね」

いつものようにそう声をかける。

いい子、死ぬの?

死なないよね。

きっと何かの間違いだから。

まだ、身体はこんなに温かい。

緑色の目はこんなにきれい。

大丈夫。

大丈夫だから。

心配しないで、お母さんの上にいたらいいよ。

何もかも大丈夫。

大丈夫、いい子だね。

 

もうごはんが食べられなくなって何日も経つのに私がキッチンでガサガサと食材を出していると(ごはん?)という顔で側に来る。

キャットフードを出してあげるとクンクン匂いを嗅いで不思議そうにこちらを見る。

大好きだったごはんだよ。

あんなに大好きで夢中で食べていたごはんだよ。

食べて。

少しでいいから食べてよ。

お願いだよ。

食べて。

「食べて」と叫びそうになるけど、もちろん叫んだりしない。

食べずにエサ皿の近くに香箱座りをした猫の背中を撫でる。

骨張ってしまった背中が愛おしい。

食べたいね。

食べれなくて嫌だね。

食べたいのに体が受け付けないなんてひどいね。

そんなのあんまりだよね。

背中を撫で続ける私の顔をジッと見ている。

揺るがない瞳には少しの弱さも諦めもない。

強いね。

あなたはいつも強くてきれい。

いい猫だね。

素晴らしい猫だよ。

私と一緒にいて幸せだった?

命ってなんだろうね。

必ず消えるそこにあるもの。温かい、優しい、強い、柔らかい、愛おしい命。

「いい子だね」

もう2度とあなたが元気な姿が見られないのが辛いです。

もう2度とあなたが美味しそうにごはんを食べる姿が見られないのが辛いです。

これは私のわがままだから、情け無い過去への執着だから、弱い私なんて気にしないで、あなたは好きにしてね。

食べなくてもガリガリでも治らない病気でもあなたは素晴らしい猫だよ。

情け無く泣く私を少しだけ許して。

こんな風に泣いたりしても私はごはんを食べるんだよ。

仕事に行くんだよ。

子どもと笑い合うんだよ。

本当になんなんだろうね。

生活しなくちゃいけないんだよ。私は人間で家庭があって仕事があるから。

クソくだらないよ。

 

猫が寝室に行ったので、パスタを茹でてバジルソースを絡めて一口食べて捨てた。

死なないでほしい。

ずっと温かい体で私の側にいてほしい。

 

始まりも終わりもないもの

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この前、とても久しぶりに美術館へ絵を観に行った。

絵画と向き合うのは体力がいる行為なので、育児に仕事に疲れているここ何年かは美術館から足が遠いていたのだけど、なんだか無性に絵が観たくなりふらふらと電車に乗って行ってきた。

チケットを買って入館すると美術館特有の匂いと静寂が懐かしかった。

妊娠する前には慣れ親しんでいたもの。

 

若い頃、確かまだ19とか20の頃にまだ付き合っていない前夫と美術館に行ったことがある。

私が誘った。

顔とか声とか撮る写真とか書く文章が好きだったから。

まだ真新しい美術館で、ゆっくり歩きながら2人で絵を観た。

観客の少ない展覧会だったので、広々としたフロアを順路に沿わずにあっちに行ったりこっちに行ったりしながら好きなように観た。

たくさん話をしながら。

「絵を観るのが好きなんだね」と彼は言った。

私はあまり頭の良くない学生だったから、絵画鑑賞なんて文化的な趣味を持っていることに驚いたのかもしれない。

「なんで好きなの?」

なんでだろう。

きれいだから。

表現が面白いから。

テーマが興味深いから。

狂気が内在しているから。

1人じゃない気持ちになれるから。

生きてる他人の思考の痕跡が生々しくて楽しいから。

どれも本当だけど、なんだかしっくりしない。

だって、そんなの小説でも、詩でも、映画でも、音楽でも、演劇でも、芸術と呼ばれるものは総じてそうじゃない?

なんで絵なんだろう。

私はどうしてこの人と一緒に絵を観たいと思ったんだろう。

誰かと観たいなんて今まで一度も思ったことなかったのに。

フロアのソファに座り考え込んでしまった。

頭にモヤがかかったみたいに思考が辿々しく頼りない。

いつもそう。

私はいつもここ1番でうまく言えない。

本当のことが言えないならせめて、

なんだかかっこいい、するどい言及をしてさ、おお君はなんて素晴らしい感性なんだ、なんてスペシャルなんだ、ユニークなんだ、って言わせたかったな。

前夫の後ろ姿を見る。

弾むような足取りで絵から絵に移ってゆく後ろ姿。

私の存在なんて忘れてるみたいにみえる。

この人どうして今日ここに来たんだろう。

まあ、いいや。

歩み寄って肩を叩くと彼は嬉しそうに笑った。

「私、たぶん絵には終わりがないから好きなんだと思います。始まりも終わりもないから寂しくなくて好きなんです」

口から自然に出てきた無防備な言葉がするすると滑ってゆく。

「えーと、音楽も物語も詩も終わりがあるから。始まって終わるから。終わるのがいつも寂しいんです。でも絵は終わらないから安心。死なない人みたい。始まりも終わりもない。閉じ込められた今だけがあるから好きです」

そんなことを言った。

彼はなんと返答しただろうか。

たぶん、「絵画はそういうものだね。詳しく書いた文献があるから今度かしてあげるよ」などと言っていたと思う。後日、絵画と時間みたいな本を貸してくれたのも覚えている。

 

昔の記憶。

今日の展覧会も人がまばらだ。

前夫は去年亡くなった。

あの日彼と観た絵が私の前にあの日と変わらない姿である。

黒い服を着た女がこちらを虚な目で見ている。

胸につけられたすみれの花束の紫がきれい。

あの日には自分より年上だった女がいつの間にかずいぶんと年下になった。若い女の絵。私みたいなおばさんではない描かれる価値のある若い女の絵だ。

歳を取ってから気づいたが、歳を取った女の絵というのはほとんどない。

画家が情熱を注いでカンヴァスに閉じ込めるのは決まって若い女だ。

今目の前にいる黒い服の彼女も中年になり老婆になり死んだはずなのに。

虚な目をした女。

あの日まだ中学生だった弟も自分で死んだ。

私は生きてる。

でもいずれは必ず死ぬ。

私にも始まりがあり終わりがあるから。

絵みたいに閉じ込めることはできないから。

 

今はもうお終いが寂しいと思わない。

終わりが怖いとも思わない。

閉じ込められてる永遠の方が寂しいと思うようになった。

終わりは清々しい。

今日はそれが確認できてよかったよ。

虚な目の女に頭の中で言った。

あなたはずっとそこにいてね。

また来るから。

終わりが怖くないって確認しに来るから。

それでは、さようなら。

またいつか。

 

不倫

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芸能人の不倫のニュースに沸くテレビやSNSにくだらないな、馬鹿みたいだなと思いながらも胸がざわつくのは、私がかつて浮気相手だったことがあり、またパートナーの不貞には並々ならぬ増悪感情があるからだろう。

 

私には浮気相手に選ばれやすいという本当にどうしようもないゴミみたいな特徴がある。

自暴自棄で自分に愛がないからだと思う。

 

17歳の時に初めてできた恋人にも彼女がいた。

間抜けなことにいつも後になって知る、というか知らされるのだ。

初めてできた恋人はアルバイト先の大学生で、皆で集まりカラオケに行ったり、ラーメン屋に行ったり、花火をしたりしているうちに仲良くなり付き合うようになるという、おそらく毎年2000万人の少女がその流れで付き合うようになるであろうありふれた始まり方をして、彼の家でマリオカートをしたり、海に行ったり、バイト先に彼の本来の恋人が来て髪の毛を掴まれたりして、彼がバイト先のコンビニエンスストアのレジの金を盗んだ捕まり終わった。

捕まったことを本来の恋人より先に私に報告してくれたことが嬉しかったことを覚えている。

救いようがないほどくだらない嬉しさは、どうしようもなく馬鹿な若い頃の私のエピソードとしてちょうどよいから。

今はもうよく覚えていないのだけど、整った顔立ちの黒縁眼鏡をかけた背の高い人で、肩から腕にかけて黒い刺青があった。

頭は悪かったけれど親が大金をはたいて医学部に入学して、でも大学にはあまり行っていなくて田舎に倦んでいた。

そんな特段面白味があるわけでない初めての恋人よりも、恋人の彼女、本来の恋人の顔をよく覚えている。

背が小さな目の大きな声の高い女の子だった。

浅黒い肌をしていて、ショートヘアがよく似合っていた。20歳のかわいい女の子。

浮気を察知して、彼と私のバイト先であるコンビニに来て私をみつけてレジカウンター越しに掴みかかってきた後、私達は3人で遊ぶようになった。

彼は私とは別れないし彼女とも別れないと私達に宣言して、彼女は彼と私が2人で会うのを嫌がっていつもついてきたから。

私は初めての恋人だったから、まあそんなものなのかと思っていた。受験勉強もあるから代打がいた方が都合がいいくらいに。

彼女は恋人に優しくて、全然怒らなくて、天女の様だった。そして私にもすごく優しかった。恋人以上に私に優しくしてくれたかもしれない。

彼は彼女のことをよくふざけて「お母さん」と呼んでいて、彼女はそれを喜んでいて、私はそれが最高に気持ち悪かった。

彼女の運転する黒いワンボックスに恋人と乗って量販店の立ち並ぶ田舎の国道を走っていると、ああ早くここから出て行きたいと叫びたい気持ちになって、もうすぐ都会の大学生になる私はあなた達と違うんだと2人を見下した。

私はこんなところであんた達と楽しく遊ぶのはもうすぐお終いなんだからと。

車の芳香剤のココナッツを模した匂い、カーステレオから流れるミスチル、遮り物がなくて強すぎる夏の日差し、太腿に置かれた恋人の手、彼女の吸うマルボロメンソールの吸殻についたピンクの口紅の跡を大人っぽいなと思った17の私。

娯楽の少ない文化のない田舎の少女の一夏の恋らしき記憶。

彼女のいる恋人に「どうして私とも付き合うの?」と尋ねると「毒を食らわば皿までと言うでしょ」と言った。そういうものかと思った。

彼女に「どうして私に優しいの?」と尋ねると「あんたがかわいそうだから」「あんた、これから男でもっと酷い目にあうよ」と言った。

そうなのかと思った。

 

その後、私に好意を持ちお付き合いをしたいと申し出てくれた男性の多くに恋人や配偶者がいて、彼女が言った「酷い目にあう」ってこれのことなのかなあとぼんやり思ったりする。

つまり誰からも1番には愛されないということ。

その価値がないということ。

別に私は男からの愛なんてなくても全然構わないけど、裏切り者には死を、1人の者を愛せない者には永遠の孤独と苦痛をと心から思う。

彼が今どうしているのか知らないけれど、彼が親から継いだ病院は廃墟になっている。

彼女は寺に嫁いで双子を産んだらしい。

息子のお喋りがしんどい日

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深夜2時にパンケーキを焼いている。

猫も息子も寝入っていて静かな家の中をパンケーキの焼ける甘い匂いがただよう。

 

今日の私は息子に優しい母ではなかった。

パンケーキの生地にポツポツと開いた穴を見ながら甘い匂いで持ち上げようとしていた心がまた落ち込んでゆく。

穴が開いたらひっくり返し時なのだけど、勢いなくひっくり返されたパンケーキの生地はだらしなく横に広がり焼きムラができている。

材料をきちんと計量しなかったから生地が緩いのだ。

こんなにもきちんとしてない私なのに。

私は威張りたいだけなのかもしれない。

それはなんて醜い。

 

今日、夜寝る前に息子が「お腹が空いた。おにぎりが食べたい」と言った。

夕飯をあまり食べなかったからお腹が空いてしまったのだろう。

子どもにはよくあること。5歳の子に先を見通して行動する力はそれほどないのだから仕方ない。怒るようなことでは全然ない。現にこれまで同じことをされても怒ったりしたことはないもの。おにぎりが食べたいなんてかわいらしいお願いじゃないの。

「いいよ」

いつものようにそう言ってささっと作ってきてあげればいい。

ツナマヨおかかの俵型の小さなおにぎりを2つ。頂き物のおいしい蒲鉾があるからそれを添えてあげたら喜ぶはずだ。

それなのに。

「もう遅いのに」

「あなたが一日中お喋りするからお母さん少し疲れちゃった」

そう言って私はため息をついた。

急いで謝って、今日は少し疲れてるからと言い訳して、急いでおにぎりを作りにキッチンへ行った。

息子は傷ついた顔をしていたと思う。

息子は私とお話しするのが大好きだから。

 

疲れていたのは本当で、今日は息子が外出したくないと言うから一日中家にこもって2人で過ごしていたので、息子のお喋りに、止めどなく続く私へのお願いに、正直に言うとうんざりだった。

「お母さん、レゴで戦いごっこをしよう」

「お母さん、色水を凍らせる実験をしよう」

「お母さん、折り紙でお相撲を作って戦おう」

「お母さん、土俵を作って」

「お母さん、お相撲がうまくおれない」

「お母さん、この折り紙じゃない両方に色がついた折り紙はどこ?」

「お母さん、紫陽花と四つ葉のクローバーも折り紙で折ろう」

「お母さん、粘土でケーキを作ってケーキ屋さんごっこをしよう」

「お母さん、紙でお金を作って」

「お母さん、僕をお膝に乗せて滑り台にして」

「お母さん、

「お母さん、

「ねぇ、お母さん?

「お母さん!

わかってるこれは普通のこと。

お母さんお母さんお母さんは微笑ましい子どもとの日常。

楽しい時間。

かけがえのない。

あと何年か後には宝物になるはずのあたたかなひと時。

わかっている。

わかっている。

しかし辛い日もある。

今日は辛かった。

仕事が忙しかった上に、猫の病気と通院あり、疲れていた。

猫の病気は精神的にかなり辛かった。

幸い早い治療が功を奏して猫は奇跡的に元気になったのだけど、私の中の疲労は猫が回復した後もずっしりと重く心身に残っていた。

もちろん、息子は悪くない。私の都合。疲れているから息子を邪険にするなんてあってはならないこと。

わかっている。

 

焼けたパンケーキを皿に移してメイプルシロップをかけて立ったまま食べる。

薄甘いパンケーキにじんわり染みたメイプルシロップ。匂いばかりが美味しそうで食べてみると肩透かしのようなぼんやりした味のパンケーキだった。おいしくない。

それでもどんどん切ってどんどん口に入れていく。

味なんてどうでもいいのだ。

口の中を腹の中を埋めてくれればそれでいい。

空いているところをどんどん埋めていかないといけないのだ私は。

早く早くとパンケーキを口に運ぶ。

埋めないといけない。

埋めないと考えてしまう。

頭の中を埋めてくれ。

頭の中を甘さで埋めていれば甘さを幸福と勘違いした馬鹿な脳が考えるのをやめてくれるから。

埋めて。

全部。

 

食べ終わると虚しさとおかしさがやってくる。

それでいいと思う。

私はそれでいい。

 

息子にはもちろんおにぎりを作った。

2つ。

蒲鉾も添えた。

喜ぶように。

私が作ったおにぎりを食べている息子の横顔を思い出す。

ぷっくりとした頬の膨らみ。

長い睫毛。

額に張り付いた黒い髪。

きちんと正座していたので、ピンク色の足の裏が目についた。

小さなピンク色のあんよ。

まだまだ小さな私の赤ちゃん。

 

息子はおにぎりを食べている間、一言も喋らなかった。

お喋りな息子が喋らないなんて。

食べ終わるとお茶をごくごくのんで、洗面所に行って歯を磨いて、何も言わないで部屋の電気を消すと、私の横ですっぽりと布団にくるまった。

そして「お母さんは、お喋りが好きじゃないんだね。ごめんね」と言った。

落ち着いた優しい声で。

「息子のことが大好きだよ」

と私は言った。

息子は「うん」と言った。

「知ってるから大丈夫だよ」と。

「息子とお話しするの好きだよ。今日は少し疲れていたから」

また言い訳をした。

「うん。大丈夫。おやすみなさい。お母さん」

「おやすみなさい」

ごめんなさいみたいなおやすみなさい。

少しも傷つけたくないのに。

少しも悲しい思いをして欲しくないのに。

私は息子にとって強者なのだ。

彼を自分の感情でコントロールすることは何よりやってはいけないことなのだ。

どうしてわかっているのに間違うのだろう。

私の父のように、母のように私はなりたくない。

なりたくないよ。

助けてよ。

誰に?

助けられる?

誰に?

誰も私を助けられないのは知ってる。

私は誰も必要としてない。

信じてない。

生き残るためには強くなるしかない。

自分でなんとかするしかない。全部。

パンケーキで脳を騙しながらでも。

知ってる。

大丈夫。

息子を愛している。