子どものいる生活

息子のこと、夫のこと、私の生活のあれこれ。順風満帆。

苦しい散歩

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歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、スタスタスタスタスタスタスタスタ、もっと早く、もっと早く、足を前に、足を前に、足を前に。

駅の雑踏の人波に乗れば体はどんどん運ばれてゆく。

歩け歩け歩け歩け歩け歩け歩け歩け私。

人波を抜けて着いたところは駅前のタワマンの横にある小さな公園。

足はまだ前に行きたがったけどベンチがあるから尻を押し込むように無理矢理座る。

足が、止まった。

ベンチに座って自分の足元をみる。

見慣れたベージュのサンダル。

妊娠中のお腹が大きな時期には夫がこのサンダルのストラップを出かけるたびに留めてくれたことを思い出す。

今と同じくらいの蝉の鳴く季節だった。

あれはもう4年前か。

視線を上げるとガラス越しにタワマンのエントランスにコルビジェのソファがあるのが見える。

私はもうコルビジェのソファに座ることなんてないんだろうな。離婚するから。離婚したら貧乏になるから。

ベンチに座っているのに息がまだ荒い。少し歩いただけなのに脚がふるふると震えている。

ベージュのサンダルはよく見ると古びていて見窄らしい。

可哀想な私。

惨めな私。

自己憐憫の涙が込み上げる。

泣くな。

これ以上惨めになることはやめろ。

泣くな。

泣いても何も変わらない。

泣くな。

私。

自己制御が成功して鼻の奥がツンとしただけで涙は出なかった。

マンションのエントランスには幼い女の子を連れた身綺麗な女がいる。

長い髪の顔立ちの整った女。

夫はきっとあの女をみたらきれいだと思うだろう。

抱きたいと思うだろう。

そういう人。

サンダルのストラップを留めてくれる優しさもあるけど、そういう人。

 

細かく震える手で鞄からiPhoneを出すと夫と知らない女が薄着で抱き合う写真を見た。

昨日からもう1000回は見た写真。

旅館の貸切露天風呂の脱衣所だと言っていた。

京都に紅葉をみにいったのだと。

私が夫を壁に押し付け睨め付けるとそう昨日の夜そう回答したのだ。

私の作ったカレーを食べたカレー臭い口で。

弱々声で、ガリガリの体で、私の好きな骨張った手で私の肩を掴みながら彼は「付き合ってる彼女なんだ」と言ったのだ。

その言葉はバラバラと私の耳に入り鼓膜にぶつかり私の全身の毛が逆立った。

掠れた声で「いつから?」と問うと「1年前くらい」と彼は答えた。

なんでもないように。

私の全身の毛はまたザザッと逆立った。

 

よくあること。

こんなことよくあること。

知っている。

このタワマンの住人の女だって浮気されてる人はいるだろう。

震えて、苦しんで、食べ物が喉を通らなくて、日に何回も夫の女の顔を最大限に拡大して隅々まで見て欠点を探してる女がこのタワマンにもいるのだろう。

また写真を見る、夫と夫の女がこちらを見てにっこり笑っている。曇りなき幸せそのものみたいなふたりの笑顔。

女は若い。丸顔で目が大きい。控えめなピアスを両耳にしている。色が白い。

これが夫に愛されている女か。そうか。これが夫が恋焦がれ、毎日甘い言葉をかけ、愛おしい、抱きたいと思う女か。

羨ましいと思った。

憎いとかではなくその女がただ強く羨ましかった。

いいな。

私も夫から甘い言葉をかけられたいな。

そしたら壁に押し付けて睨め付けたりせずに優しい笑顔で私も甘い声をだすのにな。

私も夫と貸切温泉に入りたいな。

裸の夫の温かな皮膚を感じたいな。

私も大事だと思われたいな。

一緒にいたいと思われたいな。

邪魔だと面倒だと思われたくないな。

いいなこの人。

羨ましいな。

温泉、私も夫と行ったことあるよ。私だって。もうずっと前だけど。私だって。

 

隣のベンチのサラリーマンがこちらをチラチラみるなと思ったらダラダラと泣いていた。

そりゃさ、泣くよ。

信じてたからね。

泣くよ。

大好きだからね。

泣くよ。

結婚してるし子どももいるからね。

泣くよ。

愛されてると思い込んでたんだから泣くよね。

私、ひどいことされたから悲しいから泣きます。

 

夫は「離婚してほしい。僕にできることは何でもするから別れてほしい」と私に言った。

僕にできることは何でもする」そう夫に言わしめたものが彼のサンダルのストラップを留めくれた優しさなのか、それとも強い別れたさなのか。

それは当たり前だが、バカでも後者であるとわかる。わかってしまったので家を飛び出した。

好きな男が他の女を愛して、その女との愛のために自分と別れたいと強く思っている。

その事実。

よくある、ありふれた事実。

夫からの着信はない。

私から心が離れた人をいくら思っても虚しいだけだ。

私を愛さない人なんて死んだも同じ。

わかっている。

一緒に暮らした10年を思ってもそれに価値を見出すのが私だけなのだから意味はない。

夫は丸顔の女に時間と金とこれからの人生を捧げようとしている。

彼の思いは未来に向かっている。

私と子どもはもう過去なのだ。

離婚。

しなくちゃな。

よくあること。

浮気されて離婚。

シングルマザー。

早く歩いて帰って「離婚に同意します」と言わなければ、私はもっと惨めになる。

わかってる。

縋って愛を乞うたらもっと惨めになる。

わかってる。

ここは夫と手を繋いで歩いた場所だけど、私は夫と2度と手を繋いで歩くことはないだろう。

好きなのに。

手を繋ぎたいのに。今すぐに手を繋ぎたい。私はさみしい。手を繋いでください。女と別れてください。神様に祈るみたいに強く願う。

バカか。

悲しい。

女が羨ましい。

でも立つんだ。立って歩いて帰るんだ。

そのあゆみは誰からも評価されなくても輝くように尊い

私は歩いて帰る。

足を前に出して、悲しみしか待ってない、私を愛さない夫のいる家に帰るのだ。

私は歩ける。

私は、自分を愛さない男と別れるために進める。

私は、まだ生きていく。

 

ベンチから立ちあがり、一歩、足を前に出した。

もう泣いてはいなかった。

人の波に逆らって前に進む。苦しいし悲しい。

何も悪いことしてないのに苦しいし悲しい。

でも歩く。

この夜をいつか思い出して懐かしく思えるまでは生きなきゃなと思う。

私をこんなに苦しめる男はクソだと思う。

生きなきゃ。

よくある夜の話。

 

※フィクションです。

 

読書感想文

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息子の夏休みの宿題に読書感想文というものがある。

好きな本を読んで感想文を800字書く。

800字も!小学校一年生の子供が!と驚いたが、やらないといけないらしい。

ついこの前ひらがなを習っていたばかりなのにそんなに長い文章を書けるものなのだろうか。

息子は本は好きで毎日読んでいるけど、その中に800字も感想を書けそうな本は見当たらない。

彼が好んで読むのは図鑑、国語辞典、日本地図、世界地図、ギリシャ神話、古事記、毎月進研ゼミから送られてくるチャレンジ一年生ふしぎ発見ブック、購読している月刊たくさんのふしぎ

彼にとって本とは知りたいことを調べるものであり、何かしら架空の物語を楽しむためのものではない。尋ねてみても本を読んだ感想もない。

私は図書館で司書をしていた頃、読み聞かせが好きで、館の催しでやるだけではあき足らず、近くの小児入院施設にも本を携え読み聞かせをしに行っていた。

素晴らしい、面白い、心に響く、明るい気持ちになる読みたい絵本は山のようにあった。

その頃からもし将来子どもをもったら絵本をたくさん読んであげようと思っていた。

そんな理想を胸に乳児の頃から毎晩欠かさずに絵本を読み聞かせてきたが、3歳になった頃にはもう物語の絵本を嫌がり、図鑑を読み聞かせるようにせがまれた。

息子は図鑑が大好きで、知らないことを知ることが大好きで、図鑑を見る目は好奇心でキラキラと輝いていた。

息子は物語を必要としていない。私にはそれはとても健やかなことに思えた。

物語なんて必要としないほうが健全だもの。

あんなに絵本の読み聞かせが好きだったのにそう思った。

 

私は息子とは違い物語が好きだ。必要だ。

物語は美しい嘘の世界だから。私は美しいものが好きで卑しい汚いとものには触れたくないから。

私は物語から沢山のものを学んだ。

私が生きていくのに絶対必要なことを。

幸せで美しい世界は存在するものでなく、自分で勝手に創り出すものであるということ、つまり、それは、事実がどうあれ強引に創り出すもので、それができる魂を大切に大切に手入れしなくてはならないということ。

強引に美しい物語を創り出しそこで息をしなければ、この世界は苦しい。私にとって物語はお金より色恋よりも絶対の必需品だ。

 

「この耐えがたい世界をきみの燃えるような魂が生み出す想像の力で捩じ伏せればいい」

私が初めて書いた物語を読んだ最初の夫が言ったことを思い出す。

笑ってしまう。

裕福で愛情溢れた家庭で生まれ育ち、容姿、頭脳に恵まれ、レベルの高い教育を受け、周りの人に恵まれ、好きな研究をして評価され、教授になり、富豪の娘と結婚し、浮気をして離婚し、従順な女と結婚し、浮気して離婚して、40代後半で20代の私と結婚して、時間にもお金にも余裕があり、いつも周りから素晴らしい素晴らしいと言われる人生を送るあなたの口から出る「耐えがたい世界」は完全に借り物で、どこかで見知り使おうとストックしていた借り物の言葉で私のことを評価するペラペラの薄さ、うすら寒さ、滑稽さに笑えた。

それに私の書いた物語のある箇所を指して「ここは僕がモデルなの?」と問うので、思わず鼻で笑った。

フィクションを扱うプロのあなたがそんなことをいうなんてなんてこと。

物語は物語だよ。

この物語は全部嘘。ここにあなたは存在しない。あなたの片鱗も。

あなたは卑しく醜いからここには入ってこれないの。わからない?

 

息子は物語を必要としない。彼自身が美しいから。彼は世界に居場所があるから。

読書感想文には丁寧にカマキリの成長過程が書かれ、「きもちをそうぞうしてかきましょうとありますが、ぼくはかまきりになったことがないので、かまきりのきもちはわかりません。でもかんさつとじっけんでかまきりのことをしらべてこのほんをかいたひとにかんしゃします。このほんでかまきりのことがくわしくしれてよかったです。いろいろなことをしることができるので、ぼくはほんをよむのがすきです」と結ばれていた。

息子はとてもいい。

 

 

 

 

 

 

 

救急搬送

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ガガガガガガガガ

MRIの耳元で道路工事音されてるみたいな音に起こされて一瞬だけ意識が浮上する。

頭が割れるように痛い。

心臓の鼓動に合わせて後頭部がガンガンと痛む。

救急車で病院に搬送され、看護師に名前を尋ねられる前にもう「痛み止めをください」とお願いしたのにまだ痛み止めは貰えていない。悲しい。こんなに頭が痛いのに。

ストレッチャーに乗せられたままに病院内のあちこちに連れて行かれ、あちこちでさまざまな検査を受けて、その間ずっと頭が割れるように痛い。

ストレッチャーで運ばれながら検査を受けながら時折痛みで意識が飛ぶ。

意識はゆめうつつの中に落ちて漂う。

(私はお花屋さんに行きます。あなたはこれから戦争へ行ってください。私はここに花の種を蒔きます。ねぇきいてる?どうしていつも私の話をきかないの?どうして無視するの?ねぇ?ねぇわかった?ねぇあなたどうして救急車に乗ったの?どうして息子をつれてあなたも救急車に乗ったの?やめて。いやだから降りて)

 

ガガガガガガガガガガ

再び、音に起こされ目を開く。

目前に白いものがある。私は細長い筒状の機械の中に寝そべり上へ下へと動いている。

ああ、まだMRIが終わらないのか、長いなと思う。

痛い頭で考えても、元夫がどうしてあの場にいたのか、どうして救急車に乗って病院までついてきたのかわからない。

あの人まだ病院にいるのだろうか。

これが終わったら帰ってほしいと伝えてもらおう。

頭が痛い。

それに言葉が出てこない。考えがパラパラと飛散してまとまってくれない。なんだか頭が頼りない。

これずっとこのままだと困るな。

一時的なものだといいけど。それにしても頭が痛い。

あの人どうしてついてきたのだろう。

かすかに救急車に乗り込む時の思い詰めたような、苦しそうな元夫の顔が浮かぶが、それが現実のものなのか私が脳内で作り上げたものなのかがわからない。

元夫だけじゃない息子もついてきたのだ。

痛みで立つことも歩くこともできず、救急車に乗せられても痛さのあまりに嘔吐を繰り返すだけの私に息子は「お母さん、このシートベルトどうやってしめるの?」と尋ねたのだ。

こんな状態でも私はこの子の面倒を見なくちゃいけないのか、質問に答えてやらないといけないのかと思うとぐっと喉が詰まり目の前が暗くなった。

どうして息子を乗せたの。

どうしてあなたもついてくるの。

やめて。

ひとりにして。

降りて。

今はあなたたちの世話ができないの。

そう思って口をパクパクしているうちに救急車はサイレンを鳴らし走りあっというまに病院に着いた。

 

MRIを終えて検査室の外に出ると幾分か頭の痛みがマシになっていた。いつの間にか左手の甲に点滴の針が刺されている。これが痛み止めなのかもしれない。

 

ストレッチャーのまま医師の診察を受けた。脳の血管が詰まっているとのことだった。

MRIで撮った私の脳の断面を指差し、医師が「ここ白くなってるでしょう。ここの血管が詰まってます」と言った。

「そうですか」

そうか、血管が詰まると頭が痛くなるのか。

「それでですね。詰まりをとる治療というのを進めていかないといけないので、このまま入院してもらってですね」

入院。入院はできない。息子がいるし、元夫は留置所から出てきたばかりだし。

私が身許引受人になることを条件に出してもらったのだから入院なんてできない。

そういうと医師はでは入院は3日後からにしましょうと言ってくれた。

そして部屋着の私に私物のジャージを着せてくれた。

「これで帰れますよ」と私の後ろに立ち右腕と左腕をそっと袖に通して前にまわるとファスナーをあげてくれた。小さな子供にするように。

私は脳の血管が詰まって小さな子供程度の知能になったのかもしれないと少し心配になったけれど、医師に尋ねるとそうではないらしかった。

医師に借りたジャージを着て、痛み止めを処方されてタクシーで自宅に戻ると元夫がいた。

私のことをとても心配している様子だった。

私もあなたをとても心配したんだよと言いたかった。

やっぱりまだ頭が頼りなくて言葉がうまく出てこなくて言えなかったけど、私もあなたをとても心配したの。

心配して心配して電車を乗り継いで留置所に行って、あちこち手を尽くして出てこられるように頑張ったの。

心配したの。

言葉が出てこないからじっと元夫の目を見た。

元夫も私の目をじっと見た。

その目は私の知っている目で、それは、そこには私にはわからないけど確かに彼の感情が宿っていて、私は、あ、と思った。

私がどうして留置所に行ったのか。

元夫がどうして救急車に乗ったのか。

私達は、家族なのかもしれない、そう思い至った。

そうか。

離婚したのに。

離婚したのに、病める時も健やかなる時にも、富める時も貧しき時も、私達は助け合ってる。馬鹿みたいに。自分のことより相手のために必死になって。

息子がいるからだろうか。

それとも単に愚かだからだろうか。

私達はなんなのだろう。

「心配してくれてありがとう」と言った。それ以上の言葉は出てこなかった。

家族なんていいものでもなんでもない。いたらいいってものでもない。煩わしいし諍いの元にもなる。私もこの人もお互いの嫌でたまらない部分を知っている。

それでも心配だし、困っていれば助ける。当然のように。

家族。

そうなのかもしれない。

 

私の家族は

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髪を剃り落とされた青白い頭皮には蛇の腹のようななまめかしさがあった。

その陽に晒されたことのない色のない薄い皮膚におそるおそる手を触れると思いのほか弾力があったので、数回ピタピタと叩いた。

もう全然痛くない。

風呂場の姿見の前で午前中に皮膚科で貼られたテープを剥がしてみると血はすっかり止まっていた。

よかった。

 

よかったじゃないよ。

きのうの夜遅くに彼氏と取っ組み合いのケンカになった。図体のでかいパワー有り余るバカ男に足払いをされ、受け身を取らずにどしんと倒れた拍子に本棚に頭をぶつけたら面白いほど血がピューッと噴き出しバカ男は血に驚いて逃げたのだ。

笑ってしまう。

実際、血をダラダラ流しながら笑った。

高らかに笑った。

逃げるなんて。

 

「あなたは彼女の家族じゃない。僕こそが彼女の家族だ。彼女と彼女の子どもをあなたより大事にできるのは僕だ」

彼氏はそう元夫の留守番に吹き込んだらしい。

「どうしてそんなことするの?バカなの?」

「僕の前で足を組まないでほしい」

「質問に答えなさい」

「会わないでほしい。家に入れないでほしい。離婚してるのにおかしいよ。あなたはおかしい。だいたいあいつが先に挑発して来たんだろ。あんな口汚い罵りをされたのは初めてだよ。最低な男だよ」

「質問の答えは挑発されたからでいい?勝手に私のLINEを見るからでしょ?」

「足を組まないで」

「うるさい」

「僕は悪くない。あなたがおかしい」

「そう」

「僕の親に話すよ」

「どうぞ」

「会社にいられなくなる」

「脅すの?」

「携帯を見せて」

「嫌です」

私の手から携帯を奪おうとする彼氏、奪われまいと逃げる私、手を掴まれ、振り解く、腕を掴まれ、振り解く、携帯を奪われる、キレる彼氏、携帯を奪い返そうと彼氏のみぞおちに肘鉄をくらわせたその時、ドシーンと倒れ頭から生暖かいものがつーっと流れてくる。

痛い。

「いたい」

「ごめん」

「え、何?いたた…血が…」

「ごめん」

ティッシュで血を押さえてる間に彼氏は居なくなっていた。

そんなことある?

血をダラダラ流してるのにその場から立ち去ることある?

あ、警察を呼ばれると思って?逃亡?

ははははははは

やばいな。

とんだ「家族」だな。

そっか〜

家族か

ははははははは

逃げてどうするんだよ。

警察呼ぼうかな。

頭痛い。血出まくるな。

えーっと鏡、鏡、どんな感じに切れてるんだろ。

あ〜全然大したことない。頭って血が大袈裟に出るんだな。

警察、どうしようかな。

呼んだら息子が起きるからやめようかな。

頭痛い。

病院は行かなきゃな。

タクシーで今から行こうかな。

「今からこっち来てくれない?」

「なんで」

「あなたが挑発するからケガしたの。頭から血が出てる」

「警察と救急車よびなよ。僕が呼ぶよ」

「やめて、息子が起きるでしょう?こちらに来ないならもういいです。切るね」

こいつも彼氏に、いや、もう元彼氏だけど心情的に、とにかくあのバカ男に「僕たち家族のことに口出しするな」て言ってたんだよね。

「家族」なわけあるかよ。

お前らが私の家族なわけあるか。

血を流してもひとりなのに家族なわけないじゃん。

あ、血、止まったみたい。

頭痛い。

ロキソニン飲んで、シャワーで血を流して寝よう。

救急車とパトカーのサイレンが近づいてくる。

もしかして元夫が呼んだのかな。

まあいいや。

もうねむい。

もう誰にも会いたくない。

おやすみなさい。

私の家族は息子だけだよ。

当たり前でしょう。

おやすみなさい。

さようなら。

 

 

 

 

いい父親でいて

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どうしてこんなにイライラしてるのだろう私は。

何に怒ってるのだろう。

こんなに。

理由もわからないのに上唇が微かに震えている。

弟のLINEのアイコンが変わり、他人の名前になった。それを確認した時から上唇はもう2時間も震えている。

息子の部屋をイライラしながら掃除して、イライラしながら昼食の支度をして、イライラしながらビニールプールに空気を入れて、元夫に「何をそんなに怒っているの」と指摘され、もしかして私は怒っているのかと気が付いた。

何に?

弟は死んだのだから、誰か別な人が弟の電話番号を使っても全然不思議じゃない。

弟は死んだのだから。

わかっている。

そんなことはわかっています。

私は狂っているわけではない。

 

あの番号に電話をかけたら別な人が、私の全然知らない人がでるのだ。弟の番号にかけたら。

いつもやりとりをしていた。

自分の電話番号も覚えられない私が唯一空んじることのできるあの番号にかけたら別の人が出るの?

どうして?

弟のなのに。

私の弟のなのに。

そう思うと涙がパタパタと床に落ちた。

バカバカしい弟は死んだのに。自分で選んで死んだのに。

何を私は。

 

弟の大切にしていたバイクの写真のアイコンはアニメの女の子の絵に変わっていた。

知らない人のそれを削除した。

通夜の日に父が

「まだそんなもん見てるのか俺はもう消しやったわ」とどこか自慢げに言っていた弟のLINEのアイコン。

父からの連絡を何年も無視していた弟。

通夜の日に泣き腫らした私にそんなことを言う無神経で意地悪で甘えた父。

これは父への怒りなのか。

わからない。

たぶん自分への。

弟の死を受け入れようとしない自分への怒り苛立ちなのだと思う。

なかなかキッチンから戻らない私に息子が「お母さん!お母さん!」と呼んでいる。

この子はひっきりなしに私を呼ぶ。

震えた唇で

「どうしたの?」と問うと「お父さんにお電話したい」とかわいらしい笑顔で言う。

「いいよ」

と私も笑顔で応じる。

勝手に携帯を触らないように普段は緊急時以外は父親に電話をかけてはいけないと言ってあるので息子はとても喜ぶ。

イライラしている私が相手するより電話越しに元夫に相手をしてもらったほうが息子に良いだろうと思ったのだ。

携帯を渡すと何度か呼び出し音がなった後にくぐもった元夫の声がして、息子はうれしそうに話し出した。

これでしばらくは、お母さんお母さん言わないだろう。

ホッとする。

気づくと背中に汗をぐっしょりとかいていた。

少しひとりになりたい。せめて上唇の震えが止まるまでは。

 

2人の会話が途切れ途切れに聴こえてくる。

 

良い父親でいて。

どうかこの子の良い父親でいて。

叫びたいような衝動にかられる。

お願いだから良い父親でいて。

頭の芯が痺れるほどに強く願う。

私の父のように自分の息子を痛めつけないで。

どうか良い父親でいてください。

良い父親になれないなら消えて。

いらないから。

子どもを守れない父親はいらない。

傷つける父親はいらない。

自分の影響力と責任を自覚して。

親なんだよ。

わかってる?

お前も親なんだよ。

子どもを生かしも殺しもできる親なんだよ。

目を覚ませ。

 

いつの間にかキッチンの床にへたり込んでいた。

お夕飯は、麻婆茄子とニラのおひたし。

泣きながら作ったお夕飯。

電話が切れる前にお皿に盛り付け、笑顔で食卓に出そう。

私にはそれができる。

それが私の役目だから。

父親の役目はなんだろうね。わからないけど、息子があなたを好きでよかった。

良い父親でいて。

 

 

 

 

 

どうして人は別れると思う?

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「どうして人は別れると思う?」

恋人の家の心地よい浴室でさっき言われたことを考える。

「ここは窓があるからいいね」

もう何回か言ったことがあることを初めてみたいに気にせずに口に出す。今またそう思ったから。

私は人との別れに興味がない。今そこにいる。それで全部。

ここは窓があって光がさして、広くて、柔らかな大理石の大きなバスタブはとても気持ちいい。

恋人は「窓があるからここにしたんだ」とこれももう何回目かのいつもと同じ返答をする。

私達は微笑み合う。お互いが寛いでいることがわかり、それが心地良い。

多忙な恋人と幼い子どもがいる私なので頻繁には会えない。今日は歯医者の帰りの僅かな時間の隙間に彼の家に滑り込んだ。

ドアを開けて私の顔を見た瞬間の子どものように輝く笑顔に存在を肯定されたような気持ちになる。母親ではない私の存在。誰の世話もしない私を認めてほしくて私はここにくるのだと思う。

なんの役にも立たない。私はここでほとんど何もしない。セックスもあまりしない。料理も作らない。ぼんやりと恋人が仕事する背中を見て、眠くなれば膝枕でうとうとと眠り、とりとめもない話をずっとしている。

互いの仕事の話とか、絵や花や生や死や欲や勇気の話なんかを。

話すのは楽しい。

恋人が「ここは監獄だ」と言う。これももう何度目かのこと。

私は「うん」と答える。いつも。だってそれを自分で選んでることを知っているから、いたくて監獄にいるんだとわかってるから「うん」と答えて背中をさする。赤ちゃんにするみたいに優しく優しく、おでこに手を当ててその熱を愛おしいと思う。

「冷たくて気持ちいい」

「うん」

「ありがとう」

「うん。今日、マイバスケットで東マルのうどんスープを探したのだけど、トップバリューのしかなくて悲しかった」

「買わなかったの?」

「うん」

「中身はおんなじだよ」

「そうなの?じゃあ次は買う」

「はは、そんなに人の言うことをすぐ信じたらだめだろ」

「そうなの?」

「なあ、きみは人はどうして別れると思う?」

「知らない」

「信じるから」

「そうなの?私ね、この前人にあなたのことどんな人って訊かれて、まだ誰も踏んでない雪原みたいな人って答えたの。うれしい?」

「はは、やばいね。汚れたこともしてるよ。知ってるでしょ。汚いことばっかりだよ」

「心は雪原でしょ」

「そうありたいね」

「無自覚にイノセントだからあなたは人を惹きつけるんだと思う。たくさんの人を。誰にも踏まれてない雪原はね、凶暴で無邪気で無情なの。自然はきれいなだけじゃない。恐ろしさと美しさが同居してる。そこにひとは溺れるんだと思う。メッキの部分があるのはみんなそうだもん。メッキの汚れなんてとるにたりないよ」

「ありがとう。僕のこと信じてる?」

「うん」

「そうか」

「うん」

安穏。この人は私を受け入れている。ここにいるだけのいつかいなくなる私を。

私はこの人と別れても寂しくないだろう。悲しくないだろう。

また別な窓のある浴室で違う恋人に「ここは窓があるからいいね」と言うだろう。

その時あなたのおでこの熱を思い出すかもしれない。

猫の話

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息子を寝かしつけてリビングに戻るとカーテンの外された窓がもわりと明るい。その明るさに一瞬たじろいだあとに、ああそうか、昼間カーテンを洗ってベランダに干してあるんだと思い出す。

東京の夜は明るい。特に引っ越してきたこのあたりは深夜でも窓の外は明るくて、いつも部屋の中のほうが闇が濃い。

ベランダに出ると右にも左にも前にもタワーマンションと高層ビルがある。そのたくさんの窓のいくつかには電気がついている。あそこにも人がいて灯りのもとで何かしらをしているのだなと思う。

仕事とか生活のあれこれとかを。

カーテンを取り込んで窓辺に吊るす。踏み台に乗ってカーテンレールにフックをカション、カションとかけていく。

カション、カション、カション。窓の外からは救急車のサイレン。

救急車の中にも人がいるんだなと思う。

病気か怪我の人、その人を助ける人、運転する人。

人がたくさんいる。たくさんいる人の中から必要な人を見つけ出して私達は言葉を交わして関係を作る。

 

昨日、3月に死んだ猫の兄弟猫の飼い主だったという人から連絡があった。

血統書の情報をもとに兄弟猫を探すというサイトがあるのだ。

そのヘリコプターのパイロットだという飼い主とやり取りして兄弟猫も突然死していたことを知った。

飼い主は「猫はおそらく先天的な病気だった」「あまり良いブリーダーではない」と書いていた。

「今でも思い出すと胸が潰れるようだ」「子どもを亡くしたようです」と。

「私もです」と返事をした。

 

こんなことを口にすると狂っていると思われて面倒なのでしないが、私は息子と同じだけ、産んだ我が子と同じだけ、全く同じだけ猫を愛していた。

猫もそれをわかっていて、なんでも、食事もトイレも外出も遊びも息子と同じようにしたがって、それが叶わないと機嫌を損ねた。

息子が食事を摂る時は必ずそのテーブルに上がり寝そべり、わざとではないふうに皿に尻尾を入れたし、私がトイレに行く時はふたりともついてきたし、私と息子が外出する時は、毎回、え?なんで僕だけお家なの?と不思議そうだった。毎回、毎回、不思議そうな表情をして私達を見送った。目を見開いて、ぽかんとこちらをみて。それはなんとも健気で愛おしい表情だった。

猫は私を信頼していた。

私からの愛を。

それなのに守れなかった。

亡くしてしまった。

なんてことだろうか。

そんなことってあるのか。

私は許されないことをしたのだと思う。

「ずっと一緒にいてね」と毎日言っていたのに。ふわふわの毛を撫でながら言っていたのに。

私は裏切ったのだ。

ひとりでいかせてしまった。

今頃、ぽかんとしているの?でもお母さんは必ず帰って来るって知ってるでしょう。

信じてるでしょう。

いつもより少し時間がかかるからもう少しだけ待っていて。

大好きよ。

あなたは私の大事な子どもだから。

 

窓の外はもわりと明るい。

人間の暮らす街が作り出す明かり。この明かりのもとには人と共に暮らす猫もいるのだなと思うと少し心が晴れる。

人を信頼して人と共に生きる猫達が全員死ぬまで最高に幸せでありますようにと窓の外の明かりに願う。