子どものいる生活

息子のこと、夫のこと、私の生活のあれこれ。順風満帆。

父の声

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気に入ったデザインのお洋服があったので色違いで4着買った。

白、紫、黒、紺のラインのきれいなシンプルなカットソー。

気に入ったお洋服が手元にあるのはうれしいし、こころが落ち着く。

郵送で届いたそれらを段ボールから取り出してクローゼットに仕舞っている時にいつものあれがきた。

(またお前は同じ服をそんなに買ったのか)

「私の勝手でしょう」

(そんな服の買い方はおかしい。頭がおかしい奴の買い方だ)

「やめて」

(無駄遣いをする女は最低だ。お前は最低の女だな。いくらしたんだ?いくらしたんだ?旦那には言ったのか?旦那とは仲良くしてるのか?お前にはもう後がないぞ。今の旦那に嫌われたらお前はおしまいだ。野垂れ死にだ。ホームレスだ。女がひとりで生きていけるほど社会は甘くないぞ。お前は旦那に見捨てられたらホームレスになって犯されて殺されるんだぞ。わかってるのか?無駄遣いをするな。旦那に気に入られるようにしろ。笑顔を絶やさず素直にはい、はい、言えないといけない。不機嫌になるな。笑え。金は使うな。男が喜ぶ女でいろ。男に嫌われたら女はおしまいだ)

「やめて!」

(女は愛想良くだ。賢いと言われて喜ぶな。何もわからないフリをしろ。それがいい女だ。旦那に見捨てられない女だ。みんなそうしてる。お前の同級生の真理子ちゃんも知恵ちゃんも、川島のおばさんも、山田のお嫁さんもこの辺りは女はみんな賢い。本当の賢さだ。できないお前は頭がおかしい。お前だけが頭がおかしい。頭がおかしいから金を使う)

「黙って」

(親に向かって歯向かうのか。教えてやってるのに。素直にきけ。お前はその性格を治せ。病院に行って治してもらえ)

うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい

(ほら、頭がおかしいから当たり前のことを言われてそんなに怒るんだ。お前は普通じゃない。旦那に見捨てられるぞ)

父の声が頭の中でぐわんぐわんと響く。

父はそこにいないのに、父の饐えた体臭が鼻先をかすめた気がした。

父はここにいない。

だから父は私を咎めない。

わかっている。頭ではしっかりわかっている。

だから大丈夫だということも、私はもう自由だということも。

自由なの?

こんな声が響くのに?

落ち着くためにクローゼットの中の洋服を撫でる。

自分で選んで自分のお金で買ったもの。

手触りのよいシルクのワンピース、丈の長いシフォンのブラウス、花柄のロングスカート。

実家を出てから積み上げ築いてきた私の生活の中にあるお洋服。誰にも咎められるはずがないもの。

大きく息を吐いてベッドに大の字になった。

父がいればこの行為も咎めるだろう。

はしたないと。

でもここに父はいない。

大丈夫。

大丈夫。

実家にいた頃、父は日常的に私を否定する言葉を私にぶつけた。毎日のように、躾だと言って。

それがあまりに当たり前のことだったので私は私が傷つけられていることがわからなかった。

だってお父さんってそういうものでしょ、仕方ないでしょと思っていた。

それに父は私が愛想良く従順にしていればとても機嫌がよく優しかった。

愛想良く従順な、そうすることで男性から気に入られ金銭を得ることで生活している父が養う父の恋人達のように。

母も父の前では愛想良く従順だった。

心を殺して愛想良く従順にして生み出された母の闇は私に向けられた。私や妹や弟に。

私達は成人した後、揃って心療内科の世話になり、1番優しく1番愛想良く従順な弟は自死した。

父の価値観は間違っている。

私にはもう旦那がいないし、ひとりで十分に稼いでひとりで息子を育てている。

ひとりで立派にやっている。

愛想良く従順にして男の人に養ってもらう必要はない。

自由だ。

わかっている。

それでも、ふとした時にやってくる父の声に私は怯えて暮らしている。もしここに父が居たら言うだろう言葉が頭の中に鳴り響き身動き取れなくなり息ができなくなることは苦しい。

父が死んだら自由になるだろうか。

この思いを父にぶつければ自由になるのだろうか。

わからない。

もう考えたくもない。

 

そろそろ息子が帰って来る。午前中に作った緑とピンクのゼリーがそろそろ固まっているだろう。それを賽の目に切ってソーダ水をかけてあげよう。缶詰のみかんとさくらんぼを入れよう。

喜んで食べる様子が目に浮かぶ。

大丈夫。

父はここに居ない。

私は息子を愛している。心から。

 

 

 

雨の日の下校途中

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横殴りの雨が降る中を息子の手を引いて歩く。

傘はさしていない。マッキントッシュのゴム引きのレインコートにレインブーツを履いているから横殴りの雨も顔がびしょびしょになるだけて頭や衣服などの濡れたら不快なものはすっぽりと快適に守られているから平気。

水色のレインコートを着た息子ももちろんレインブーツを履いて、ランドセルには虫柄のビニールのカバーをかけている。下を向いているから表情は見えないけれど、その顔が曇っていることは容易に想像できる。

「プールに入りたかったのに」

先程から何度目かの抗議。

先月から水曜日はプールの日と決めてふたりで区民スポーツセンターのプールで泳いでいたのだけど、私が手術をしたので今日はプールに行けない。息子はそれが不満なのだ。

「仕方ないでしょう?お母さんは手術の後で一緒には入れないんだから」

「僕はひとりで入れるのに」

「小学3年生までは保護者が一緒じゃないと入れないの。そういうルールなの。前から知っているでしょう?同じことを何度も言わせないで」

息子は立ち止まる。何も言わないで私のことをじっと見る。

言葉での抗議が受け入れられなかったから行動にでたらしい。そのへの字に曲がったお口をお母さんがどれだけ愛おしく思っているかあなたにはわからないでしょう。

今からプールまで走って行って、このお腹に開けられた穴を、内臓が引き摺りだされた穴なんて適当にガムテープなんかで塞いであなたと手を繋ぎプールに飛び込みたい衝動をどれだけ必死に抑えているかなんて。

めちゃくちゃにやろうかな。あなたの願いは全て叶えてあげたい。なんだってできる。

病がこの子といる時間を奪うのならそのくらい許されるでしょう?

そう思ってしまうのを。

「来週は行けるよ」

「今日行きたかったの」

柔らかい手が私の手をキュッと握る。小学一年生の私の子ども。

「あ〜あ、つまんない」

「ね。お母さんもつまらない。ねぇ、今から公園にバラを見にいかない?満開だから雨の中で見たらきっときれいだよ」

「うん、いいよ」

息子は公園に向かって走り出す。

私は息子を戯けて追いかける。

(2週間は安静にしてください。激しい運動はしないで疲れたらすぐに休憩するようにしてください)

医者の言葉。

子どもと走るのは激しい運動だろうか。

きっとちがう。

大丈夫。

激しい運動というのはトライアスロンとか冷蔵庫を持ち上げたりとかだから。

私が追いかけると息子は笑い声をあげる。

 

薄紫のバラ、ピンクのバラ、黄色のバラ、真紅のバラ、白いバラ、オレンジのバラが花壇に咲き乱れている。

横殴りの雨の中私達は一つ一つ丁寧にバラを見た。

ミスター・リンカーン、オールド・ローズ、ロサ・ガリカ、アルバ・セミプレナ

名前を読み上げる。

これはオランダ、これはフランス、これはエクアドル

「僕、エクアドルに行ってみたい。昆虫がたくさんいるから」

「どこにでも行ったらいいよ」

「大人になったら?」

「うん」

「大人になったらプールもひとりで入れるね」

「うん。プール、お母さんの都合で我慢させて悪いね。ありがとうね」

「あのね、僕ね、大人になってなんでもひとりでできるようになってもお母さんと一緒にいるよ。もうそう決めてるの。お母さんと一緒が最高だから」

それはそれは光栄です。

あなたが大人になってもまだそう思っていたなら一緒にエクアドルにいきましょう。

ふたりで色鮮やかな昆虫を見て、今日のことを思い出して笑いましょう。

ありがとう。

 

 

 

小学生のいる家

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息子が小学生になってから家がどんどん実家みたいになってゆく。

そんなふうにするつもりなんて少しもないのに、気がつけば、ごくごく自然に滑らかにそういうふうになっていた。

冷蔵庫に貼られた給食予定表を手始めに和室には運動会使ったポンポン、リビングの無印の棚にはクワガタの住む虫かご、シロヘリオオツノカナブンの幼虫ケースが5個、水槽には色鮮やかなベタ、リビングのローテーブルには進研ゼミの付録であるヒマワリ観察表、卓上カレンダー、ソファの横には図書館で借りた本がエコバッグに纏めて入れてある、キッチン洗いカゴにはサーモスの水筒が3つも干してある、冷蔵庫の中には自家製の梅シロップ、自家製の胡瓜の漬物、自家製のレモネード、ベランダにはたくさんの子ども服とシーツ、バスタオルが揺れている。

夥しい数のものたち。

私が全て把握して管理しなければいけないものたち。

ここは私達のおうち。私とかわいい息子の。

私は幸せなのだと思う。

この家の生活。夥しいものに囲まれた雑多で慌ただしい生活。

生きることは生臭いのだと思い出すような。

生きることはあまりに雑多で、笑いそうになるくらい生臭いのだと思い至るような。

 

息子がいなかった頃は、生臭さから目を背けたくて、美しいものばかり端正なものばかり無機質なものばかりを部屋に置いていた。

その頃の私がみたら眉を顰めるであろう、カオナシのおもちゃが置かれたテレビ台の上のテレビを汚れ防止の安っぽいブランケットがかけられたソファで寝そべりながら観ている。

テレビからはフランスのジベルニーにあるモネの庭が映し出されて、その美しさを旅人が絶賛している。

モネも庭に行ったことを昨日のように思い出す。若く美しく飛び跳ねるように元気だった頃に恋人と行った。そうあそこに立ち太鼓橋の写真を撮った。美しいものしかみたくなかったあの頃。

ソファで思いきり伸びをすると腕の付け根の骨がバキバキと音を立てて鳴った。

ベランダに面した大きな窓を開けると雨の匂いのする冷たい風が入ってきて気持ちがいい。

口から細く息を吐く。

息子が育てている朝顔に本葉が出ているから明日起きたら教えてあげよう。

私は自分の体がしっくりとこの家に馴染んでいるのを感じて嬉しくなる。

ここは私の家だ。

私は歳をとって骨が軋むし、もう自由にジベルニーに行くことは難しいけれど、自分の生活を愛せるようになった。

母親としての生活をありのままの生臭い生活を私は愛している。

よかった。

ヒサコさん

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子どもの頃、確か私が小学2年生の頃までは実家にお手伝いさんがいた。

そのころのうちは、祖父、祖母、父、母、叔父、私、妹、弟と8人家族で、しかも祖父も祖母も父も母も叔父も仕事をしていたので、家事育児を担う人間が必要だったのだ。

お手伝いさんは、ヒサコさんと言った。

ヒサコさんは、戦争孤児で10代の頃からお手伝いさんとして働いてきたらしい。

みなヒサコさんを「ひさこ」と呼んだ。家族も近所の人も。

私はヒサコさんが苦手だった。物心ついた時から家にいて、食事の世話、身の回りの世話してくれたし、遊んでくれたのに苦手だった。

ヒサコさんも私が苦手だったと思う。ヒサコさんは私にイライラしてたし、それを隠そうとしなかった。

私はヒサコさんが作る料理が嫌いだった。チャーハンもナポリタンもインスタントラーメンも彼女が作るとべちゃべちゃだった。ソースとかマヨネーズとかケチャップとかの調味料が大量にかかっていて味が濃くて舌がバカになりそうだった。

その不味い料理を私は嫌々口に運んだ。とろとろとろとろとメンドくさそうに。

「もっと早う食べな口の中でうんこになるで」

ヒサコさんは必ずそう言った。

怒ってるというより、うまい冗談を言っているという口調で。

そしてニヤリと笑い。私の胸をぽんぽん叩くと「いっぱい食べなやな、おっぱいも大きくならへんで」と言った。

食卓についてる家族がどっと笑った。

ヒサコさんは嬉しそうだった。得意げだった。その表情には媚びがあった。

彼女は彼女なりにここでうまくやるために努力をしてるのだろうと思った。

幼児の胸をからかう冗談も彼女なりのうまくやる術なのだろうと。

そう思いながら見下ろした自分の胸を覚えている。就学前だったので、当たり前だけどそこは平坦で、ブルーグレーのコーデュロイのワンピースに包まれていた。

ブルーグレーのワンピースの裾には汽車の刺繍があって、それはかわいくてお気に入りのワンピースだったけれど私はその日を境にそれを着なくなった。

 

ヒサコさんには自分の部屋があった。そこは4畳ほどの畳の部屋で、畳は古く陽に焼けていて壁は砂壁だった。

そして壁の前にはずらっと缶コーヒーの空き缶が並び、天井まで積み上げられていた。

それは異様な光景だった。

「あんたはもう小娘やな。もう子どもとちゃう小娘や。男が追いかけてきよるで。あんた男手玉にとったらあかんで。はっはっはっは」

積み上げられたコーヒーの缶、仄暗いヒサコさんの部屋、私の顔をマジマジと見ながらタバコを吸うヒサコさん。

陽気なヒサコさん、粗野なヒサコさん、小指の爪だけ長いヒサコさん、生きるために時には媚びをうるヒサコさん。

親には「あの人がいないとうちは困るんやからな。絶対ケンカしたりしたらあかんで」と言われていたので、私はヒサコが何を言っても怒らなかった。

ヒサコさんは叔父が結婚して家を出て、祖母が事業を他人に渡したのを機にうちを辞めた。

ヒサコさんが担っていた家事育児は祖母がするようになり、しばらくするとヒサコさんのことは誰も話さなくなった。

同じ家に住み毎日一緒にいたのに家族じゃなかったヒサコさんは今どこにいるのだろう。

今も小指の爪だけ長いのかしら。

今もべちゃべちゃのナポリタンを作っているのかしら。

ヒサコさん、私は缶コーヒーがなんだか怖くなってしまって、今までに一度も缶コーヒーを飲んだことがないです。

 

通り過ぎるだけ

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パンっと眠りから弾かれたように目が覚めた。

時計を見ると午前4時で、隣では息子がスースーと寝息を立てている。その闇に浮かび上がる白い頬がぷっくりとしていて愛おしい。

 

弟が亡くなってから朝方こんなふうに眠りから覚めることが多くなった。

弟が亡くなってもう2年。眠りから突き放されることに今ではすっかり慣れている。

睡眠が不調なことは、どこか自分が弟の死をまだ悲しんでいる証拠のような気がしてまだ忘れていない、悲しい、まだ大丈夫という安心感をもたらす。

少しだけでも不幸なほうが、悲しく苦しく自分で死んだ小さな弟の近くにいられる気がする。

お姉ちゃんまだ悲しいからね。

寂しくないからね。

忘れないからね。

お姉ちゃんはまだ、まだ、ずっと悲しいから。

といない弟に届かないメッセージを送る。

そんなこと弟は望んでないのに、なんだろうこれ。自己愛か。

私が死んだ後、誰かがこんか風に念じていたら嫌だな。

あの子は自衛隊の船に乗り広い海の上にいても電波が届く限りは私が電話をかけると必ず出てくれた。

どんなくだらない電話でも私からの電話なら喜んで出てくれた。

引っ越しするときはいつもお互いが保証人になった。

家電の取説と一緒にまとめられた賃貸契約書には今も弟の名前がある。もういないのに署名と印鑑がそこにある。

死ねこと、居なくなること、話せなくなること、会えなくなること、この世のどこにも存在しないこと。

不思議。いないなんて。

もう涙は出ない。

2年経ち、私は弟の死に慣れた。悲しいまま慣れた。

ぼんやりと天井を見上げて、昼間に病院で医師からきいた検査結果のことを思い出す。

「ほとんどが良性なんですがね、あなたのこれは、ちょっと悪い顔つきをしてるんですよ」

「悪性というのとですか?」

「まあ、そういうことになりますね」

「入院ですか?」

「ええ、来週また来てもらって日にちを決めましょう。ご家族の方もご一緒にいらっしゃれますか?」

「家族は6歳の息子だけです」

「そうですか。ではお一人でということですね」

「はい、ひとりです」

ひとりです。

私はそう答えるとき少し楽しかった。

ひとりでよかったと思った。

病気でひとりは弟に近いから。

もう眠ることを諦めて体を起こす。窓を細く開けて朝の空気を部屋に入れる。

5月の空気は薄く緑の匂いがする。新緑の匂いは芽吹く命の匂いだ。

 

私が起きた気配を感じた猫がトストスと柔らかな足音を鳴らしてこちらに来る。

なあ〜

「はあい」

なあ〜

「いいこね」

猫が私の布団に入ってくる。

グルグルと喉を鳴らす音が響く。

猫、自由が丘のペットショップで元夫が買った猫。

ペットショップでは他の猫に乱暴するからと動きを抑制するために髭を切られていて、爪研ぎもしないように躾られていた。

それが堪らなくて購入を決めた。元夫は私の意見に反対するということがなかったから、猫はその日から私の猫になった。

私は猫に「あなたはもうなんでも好きにしたらいいの。爪を研いで。家の壁で研げばいい。バリバリバリって思い切り!ここで、ほら、こうしてごらん?

それからね、好きなだけ走って暴れればいいよ。おもちゃを追いかけて、そう、これを私のところに持って来て。そう、上手ね。お利口ね。ポンムはとってもお利口なにゃんにゃんなんだよ。すごくお利口。お利口っていうのはあなたが自由で幸せなこと。ポンムはすごくお利口よ。

たくさん一緒に遊ぼうね。私はあなたのお母さんなんだよ。いつでもたくさん甘えて。いつでもだよ。朝も夜もいつでも好きなだけ。大好き。ずっと一緒にいてね」と言った。

ポンムと名付けた猫は、その通りにした。

壁をぼろぼろにし、走り回り、いつでもどこでも甘えに甘えてトイレにまでついて来て甘えた。そして私以外の人間が自分に触れることを許さなかった。

そう、許さなかった。

許さなかった?

頭にモヤがかかりパンっと眠りから弾かれたように目を覚ます。

うとうとと寝てたみたい。

猫はいない。

猫は3月に死んだんだもの。

甘えてついて来たトイレの中で突然死んだんだもの。

涙がだらだらの流れる。

いない。もう会えない。

 

「ほとんどが良性なんですがね、あなたのこれは、ちょっと悪い顔つきをしてるんですよ」

医師は眉間に皺を寄せて深刻な顔でそう言った。

悪性の腫瘍。

そう。

さよならこんにちはさよならこんにちはさよなら。

そういうこと。

通り過ぎるだけ。

かつて私の頭を撫でた大人たちがもうここにいないように、かつて私と手を繋ぎ歩いた男の人たちがもうここにいないように。皆通り過ぎるだけ。

私も。

だから私は何も少しもこわくない。

ただ、どうか隣に眠る愛おしい子が悲しみませんようにと思う。

 

 

お月見

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十五夜の満月が美しかったのでベランダでお月見をした。

お団子は売り切れていたので、バナナとヨーグルトを入れた小さな丸いパンケーキを焼いて蜂蜜をたっぷりかけて食べた。

狭いベランダに椅子を出して座る。隣には息子。

息子はパンケーキを食べ終わりポテロングを食べている。

夕飯の餃子も胡瓜とトマトのサラダをもりもりと食べた後なのに。

「たくさん食べるね」

「うん!」

誇らしそうに笑顔で頷く。私はこの子が可愛くてたまらない。

「いい子ね」「かわいいのね」「あなたは素晴らしいのね」

親バカで自分でも呆れるのだけど、これらの言葉が日常的についつい口をついて出てしまうのだ。

狂ってるのかもしれないと思う。こんなに我が子がかわいいなんて。

私の母は一度だって私を褒めたことなんてない。

父も。

いい子なんて言われたことない。あるはずがない。

母も父も子どもなんて鬱陶しいという態度を遠慮なく出す人だった。母はよく「私は子どもが嫌い」と言っていたし、でも後継の子を産むのが私の役目だから男の子が生まれるまでは子どもを産まなくてはいけないとも言っていた。

そして私を産み、妹を産み、弟を産んで、子どもを産むのをやめた。

弟は実家と縁を切って、その後自分で死んだ。

よく子どもは邪魔だと言われた。

口答えをすると文句があるなら出て行け、お前に使った金を返せと父に殴られた。

父は剛健な体つきをしていたのでガリガリだった私の体吹っ飛び床に叩きつけられた。

父は何ごともなかったように野球中継を観て、贔屓のチームが勝つと機嫌が良くなり、ニヤニヤしながら「大丈夫か。お前も女やったらもっも可愛げがないとあかん」と言った。

ビールを飲んで赤らんだ顔、母は一度も箸を止めずに夕飯を食べていた。ガツガツと形容しても差し支えない勢いで。あの時の母の口のまわりについたマヨネーズ、ぶくぶくに太った体、私を見る(お父さんを怒らせるな)というイラついた目。

こんなことが月に2、3度はある生活だったけれど私はそれが当然だと思っていた。私が悪い子だから出来損ないだから仕方ないのだと。今もどこかでそう思ってる。

 

だからこんなに自分の子どもが愛おしく感じることが間違っているように感じる。

私は子どもを愛してる母親になりたくてこの子を愛おしく思おうと必死なのかもしれない。

不安が湧いてくる。

私は自分がなりたかった母親像を演じてるだけなのではないか。

どんどん湧いてくる。

考えても仕方がないこと。

もうやめよう。

「苦難は色気になるけれど、苦悩はだめ、険しい顔になるから、だめよ」

美容皮膚科の医院長が私の顔にヒアルロン酸を打ちながら言ってたではないか。

苦悩は無駄だ。

やめよう。

過去に囚われて馬鹿みたい。

月は冴え冴えと美しい。

隣にちょこんと座る息子の横顔が、口の周りについた菓子のカスまでもが胸が苦しいほどに愛おしいのに何を悩むのか。

季節の変わり目は過去を思い出しすぎる。

「お母さん、月って銀河が発生してまだ少ししか経ってない頃に地球に火星が衝突してできた破片なんだよ」

息子が空想なのか事実なのかわからない宇宙の話をしている

「そうなの」

「うん。お母さん、宇宙はいつかなくなるでしょ。その後に何が残るかわかる?」

「わからない」

「何もないよ。真っ暗。またひずみが発生して宇宙ができるまでは真っ暗。でもね、大丈夫。僕のお母さんのことが好きって気持ちとか大事なことは見えないけどずーっとある。見えないだけ。だから全部が消えても怖くないからね」

「そうなの?」

息子はとても賢いので私にはよくわからないことをたくさん話す。

「うん」

「怖くないなら、よかった」

宇宙のことはよくわからないけれど、息子が私を好きでいてくれるなら、それはとてもうれしい。

草むらの夢

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夢の中でこれが夢だとわかっている。そんな夢を見た。

「これは眩しいような緑ですね」

浴衣を着て縁側に座り死んだはずの前夫が私に言った。

目を向けると確かに庭に雑草がぼうぼうと茂りその緑は眩しいくらいに鮮やかだ。

「ほんと」

私は答えた。

前夫は微笑んで私の手の甲をそっと撫でた。

前夫は私の手が好きだった。「小さくてかわいいから」と。小さくてかわいいから好きなんて、なんて原始的な感情なのだろう。

小さくてかわいい非力なものを愛でたいという欲求をどうぞ私で満して。私を非力だと庇護の対象だと思っていて。

私にはそれが心地いい。

それくらいしか私はあなたにあげられないから。

本気でそう思ってた若い日。遠い前夫と過ごした日々。

 

草の匂い。

夏の匂い。

あれ、今って夏だっけ?

そういえば、蝉の声がしない。

蝉、そう私の子どもが大好きな蝉。

私の子ども。

そう、私には子どもがいる。

「先生、私、子どもを産んだの。もう5歳になるよ」

そう言って、前夫の方を見ると彼はすっかりお爺さんになっていた。

さっきまでは40代くらいのおじさんだったのに。

お爺さんはパジャマ姿でこちらを向き目を瞬かせた。

「子ども?それはおめでとう」

にっこりと笑って言う。

よそ行きの生徒に見せる用の先生然とした笑顔だ。

この人はプライベートではあまり笑わなかった。学生の前で良い先生を演じている分自宅では横柄だった。

「あ」

お爺さんになった前夫が着ているパジャマに見覚えがあった。これは私が贈ったものだ。

私がお見舞いに持って行き渡した柔らかなネルの紺色のパジャマ。

「ありがとう。あなたからまたプレゼントをもらえるなんて病気になった甲斐があったよ」とふざけて言っていた。

この人はこれを着て亡くなったと人伝にきいた。

風が強く吹いた。

背丈の高い草がざわざわと揺れる。

「これは眩しいような緑ですね」

前夫がまた言う。

「ほんと」

私が答える。

夢だとわかっている。

この人はもういない人。

「あなたが幸せなら僕はうれしいです」

不意に前夫が言うので驚いた。

なんて都合が良い夢だろう。

そんなこと前夫は言ったことない。

そんなこと言わない。

だいたい私は今、離婚するしないで揉めていてとても幸せとはいえない状況なのに。

だから、だからこそ誰かに幸せを願われたいのだろうか。

私は弱いな。

私は弱くて小さくて非力だ。

 

「これは眩しいような緑ですね」

前夫がまた言う。

お爺さんの姿で、何も見ていない目をして。

なるほど庭の緑は燃えるようだ。

さっきより一層鮮やかになり轟々と揺れている。

「ほんと」

私は答える。

それにしてもここはどこだろう。

古びた平家の一軒家の縁側、奥に目を向ければ仄暗い畳の部屋が見える。

「ここはどこ?」

前夫に尋ねてみる。

「君がいつか死ぬ家だよ」

私は目を見開いて前夫の顔を見たけれど、彼の表情は静かなまま、白濁した目は何も見ていない。

「そう」

驚いたけれど、そうかもしれないと思った。

これは夢だけど、そうかもしれない。

死はどんどん近しいものになってくる。

「またおいで」

前夫が言った。

白濁した目の前夫はさっきより一層お爺さんになったようだった。

小さく縮んで頭髪も僅かしかない。

生きていたらこんなふうに歳をとったのかもしれないなと思った。

「うん」

そう答えて、縁側から降りた。

ざぶんと水に飛び込むように草むらの中に入る。

草の匂いが鼻をつく。

胸の高さまである草がチクチクと皮膚に刺さり痛い。

なんで私ここにいるのだろう。でもいいや。なんだか楽しい。草むらの中はひんやりしていて気持ちいい。

草の中でクルクルと回ってみた。

シャっと草が擦れて半袖から出た二の腕が切れる。血が滲む。

血が出た腕をみると酷く筋張っていて皺々だ。

不思議に思い自分の体を見下ろすと体の全部が筋張っていて皺々になっていた。

お婆さんになっていた。

縁側から前夫が私の名前を呼ぶ。

答えようとするけど、草の丈がどんどん伸びて前夫の姿が見えない。

緑は燃えるように鮮やか。