子どものいる生活

息子のこと、夫のこと、私の生活のあれこれ。順風満帆。

苦しい散歩

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歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、歩く、スタスタスタスタスタスタスタスタ、もっと早く、もっと早く、足を前に、足を前に、足を前に。

駅の雑踏の人波に乗れば体はどんどん運ばれてゆく。

歩け歩け歩け歩け歩け歩け歩け歩け私。

人波を抜けて着いたところは駅前のタワマンの横にある小さな公園。

足はまだ前に行きたがったけどベンチがあるから尻を押し込むように無理矢理座る。

足が、止まった。

ベンチに座って自分の足元をみる。

見慣れたベージュのサンダル。

妊娠中のお腹が大きな時期には夫がこのサンダルのストラップを出かけるたびに留めてくれたことを思い出す。

今と同じくらいの蝉の鳴く季節だった。

あれはもう4年前か。

視線を上げるとガラス越しにタワマンのエントランスにコルビジェのソファがあるのが見える。

私はもうコルビジェのソファに座ることなんてないんだろうな。離婚するから。離婚したら貧乏になるから。

ベンチに座っているのに息がまだ荒い。少し歩いただけなのに脚がふるふると震えている。

ベージュのサンダルはよく見ると古びていて見窄らしい。

可哀想な私。

惨めな私。

自己憐憫の涙が込み上げる。

泣くな。

これ以上惨めになることはやめろ。

泣くな。

泣いても何も変わらない。

泣くな。

私。

自己制御が成功して鼻の奥がツンとしただけで涙は出なかった。

マンションのエントランスには幼い女の子を連れた身綺麗な女がいる。

長い髪の顔立ちの整った女。

夫はきっとあの女をみたらきれいだと思うだろう。

抱きたいと思うだろう。

そういう人。

サンダルのストラップを留めてくれる優しさもあるけど、そういう人。

 

細かく震える手で鞄からiPhoneを出すと夫と知らない女が薄着で抱き合う写真を見た。

昨日からもう1000回は見た写真。

旅館の貸切露天風呂の脱衣所だと言っていた。

京都に紅葉をみにいったのだと。

私が夫を壁に押し付け睨め付けるとそう昨日の夜そう回答したのだ。

私の作ったカレーを食べたカレー臭い口で。

弱々声で、ガリガリの体で、私の好きな骨張った手で私の肩を掴みながら彼は「付き合ってる彼女なんだ」と言ったのだ。

その言葉はバラバラと私の耳に入り鼓膜にぶつかり私の全身の毛が逆立った。

掠れた声で「いつから?」と問うと「1年前くらい」と彼は答えた。

なんでもないように。

私の全身の毛はまたザザッと逆立った。

 

よくあること。

こんなことよくあること。

知っている。

このタワマンの住人の女だって浮気されてる人はいるだろう。

震えて、苦しんで、食べ物が喉を通らなくて、日に何回も夫の女の顔を最大限に拡大して隅々まで見て欠点を探してる女がこのタワマンにもいるのだろう。

また写真を見る、夫と夫の女がこちらを見てにっこり笑っている。曇りなき幸せそのものみたいなふたりの笑顔。

女は若い。丸顔で目が大きい。控えめなピアスを両耳にしている。色が白い。

これが夫に愛されている女か。そうか。これが夫が恋焦がれ、毎日甘い言葉をかけ、愛おしい、抱きたいと思う女か。

羨ましいと思った。

憎いとかではなくその女がただ強く羨ましかった。

いいな。

私も夫から甘い言葉をかけられたいな。

そしたら壁に押し付けて睨め付けたりせずに優しい笑顔で私も甘い声をだすのにな。

私も夫と貸切温泉に入りたいな。

裸の夫の温かな皮膚を感じたいな。

私も大事だと思われたいな。

一緒にいたいと思われたいな。

邪魔だと面倒だと思われたくないな。

いいなこの人。

羨ましいな。

温泉、私も夫と行ったことあるよ。私だって。もうずっと前だけど。私だって。

 

隣のベンチのサラリーマンがこちらをチラチラみるなと思ったらダラダラと泣いていた。

そりゃさ、泣くよ。

信じてたからね。

泣くよ。

大好きだからね。

泣くよ。

結婚してるし子どももいるからね。

泣くよ。

愛されてると思い込んでたんだから泣くよね。

私、ひどいことされたから悲しいから泣きます。

 

夫は「離婚してほしい。僕にできることは何でもするから別れてほしい」と私に言った。

僕にできることは何でもする」そう夫に言わしめたものが彼のサンダルのストラップを留めくれた優しさなのか、それとも強い別れたさなのか。

それは当たり前だが、バカでも後者であるとわかる。わかってしまったので家を飛び出した。

好きな男が他の女を愛して、その女との愛のために自分と別れたいと強く思っている。

その事実。

よくある、ありふれた事実。

夫からの着信はない。

私から心が離れた人をいくら思っても虚しいだけだ。

私を愛さない人なんて死んだも同じ。

わかっている。

一緒に暮らした10年を思ってもそれに価値を見出すのが私だけなのだから意味はない。

夫は丸顔の女に時間と金とこれからの人生を捧げようとしている。

彼の思いは未来に向かっている。

私と子どもはもう過去なのだ。

離婚。

しなくちゃな。

よくあること。

浮気されて離婚。

シングルマザー。

早く歩いて帰って「離婚に同意します」と言わなければ、私はもっと惨めになる。

わかってる。

縋って愛を乞うたらもっと惨めになる。

わかってる。

ここは夫と手を繋いで歩いた場所だけど、私は夫と2度と手を繋いで歩くことはないだろう。

好きなのに。

手を繋ぎたいのに。今すぐに手を繋ぎたい。私はさみしい。手を繋いでください。女と別れてください。神様に祈るみたいに強く願う。

バカか。

悲しい。

女が羨ましい。

でも立つんだ。立って歩いて帰るんだ。

そのあゆみは誰からも評価されなくても輝くように尊い

私は歩いて帰る。

足を前に出して、悲しみしか待ってない、私を愛さない夫のいる家に帰るのだ。

私は歩ける。

私は、自分を愛さない男と別れるために進める。

私は、まだ生きていく。

 

ベンチから立ちあがり、一歩、足を前に出した。

もう泣いてはいなかった。

人の波に逆らって前に進む。苦しいし悲しい。

何も悪いことしてないのに苦しいし悲しい。

でも歩く。

この夜をいつか思い出して懐かしく思えるまでは生きなきゃなと思う。

私をこんなに苦しめる男はクソだと思う。

生きなきゃ。

よくある夜の話。

 

※フィクションです。