子どものいる生活

息子のこと、夫のこと、私の生活のあれこれ。順風満帆。

さよなら

「私が誰だかわかる?」

目を見て尋ねた。

「あまね」(仮)

瞳孔が開いた黒々とした危うい目で元夫が私の名前を答える。この人は私の名前を呼ぶ時いつも大事なものみたいに口に出す。

こんな時も。

「うん。そう、あってる」

4年ぶりに入った元夫の家は廊下にも玄関にもソファの下にも埃が溜まっていた。

シンクにはタバコの吸い殻。

寝室には女のために買ったという寝具一式。

小綺麗な人だったのに随分荒んだなと思った。

一緒に暮らしていた時とは人が変わったみたいだ。

着る物も髪型も20代みたいにして荒れた部屋に住んで、今、狂っている。

双極性障害の本に躁状態のサイクルが5年おきが多いとあった。ちょうど5年だ。

教科書通りの再発がこの人らしい。

「違う人みたい」

「それよく言うね」

いつも通り病識はない。違う人みたいなのに自分ではわからないみたい。

「みかん食べよう」

元夫は唐突にそういうと小ぶりの蜜柑を私に手渡した。

私達はソファに並んで座ってそれを食べた。

「これ甘いね」

「うん」

にこにこと機嫌が良い顔。

幼い無防備な私を見る目。

狂ってる時のこの人はいつもこんなだ。

蜜柑を食べ終わると元夫は部屋をウロウロと徘徊しだした。

手にはチャリチャリと小銭を持っている。

「あまね、あまね」

「何?」

「仕事に行かないと」

「今は夜の11時だよ。仕事はもう終わりだよ。病院に行きたくないんでしょう。私が落ち着くまでお外に行かないように見ているから。大丈夫だから」

「ダメだ。何を言ってるか自分でわからない」

「せん妄状態なんだよ。大丈夫。治るまでここにいるから」

「入院したくない」

「うん」

「あまね」

「何?」

「雨が降ってるから傘を持っていかないとダメだよ」

「今日は一日いいお天気だよ」

「泊まる気なの?」

狂った時特有の子どものような表情が急に険しくなってそう尋ねた。

「え?泊まらないよ。子どもをおいてきてるんだから泊まれるわけないでしょ?あなたが入院したくないでも1人にしておくと危ないから落ち着くまでみているの」

「あ、ああ」

何を言ってもわからないみたい。

「私を誰かと間違えてるの?あのお布団の人?私はせん妄状態の時に1人にするリスクを考えてここにいるの。遊びに来たんじゃないの」

「こわい。怒らないで」

「お外に出て危ないことして警察に通報されて保護入院したいの?心配して来たのになんなの?」

「ごめん」

「病院に行きましょう」

「え?」

「私に見守られるのが嫌なら入院しなよ。入院が嫌でも薬をもらった方がいい。明日からどうするの」

「そうか、そうだね。うん」

「病院に電話するからそこでいい子にしていて」

いつもせん妄状態は6時間もすれば落ち着くのに今回は長い。

私がこのまま朝まで見守るわけにはいかない。子どもが起きて私を探すかもしれない。

もう夜中だ。早く家に帰りたい。息子の隣で暖かな布団に包まって休みたい。

救急外来のある精神科に電話をしてあれこれ説明する。

元夫は寝室で丁寧にベッドメイキングしている。

狂ってる時はいつも多動だ。

4年前に同じ状態になった時は私のベッドに来て「撫でて」と言うので、ぴったり寄り添い背中をヨシヨシとさすってあげると多動がおさまった。

救急隊の前で私をぎゅうぎゅうと抱きしめて「僕の妻です」と言っていた。

私はもう背中をさすってやらない。もう妻でもない。

4年間に2人の間にはあまりに多くのことがありすぎた。それが全て病気のせいでも、愛情にも憎しみにももう疲れ果ててしまった。

寝室には女の布団がある。ゆきずりでも恋人でもその人があなたを大事にしてくれたらいい。

「診てくれるって、行こう」

夜道を歩いて精神科に向かう。

フラフラしているので手を繋いだら振り払われた。

「どうして?」

「責任を伴うから」

「責任?」

「え?あ、レイプされたとか言われたら困るし」

「レイプ?私を?手を繋いだだけなのに?」

「いや、ごめん。自分で何言ってるからわからない」

「病院行こうね」

「あまね」

「ん?」

「心配してきてくれてありがとうね」

「困った時はお互いさまだから」

「旅行が好きなんだ。移動が好き」

「え?ああ、前の彼女と旅行たくさんしてたものね。国内旅行にほとんど行ったことないって言ってたから良かったね。私とは出会って割とすぐ妊娠したからあんまり旅行行けなかったし」

「お金いっぱいとられた。裏切られた」

「そうだね。でも楽しかったこともあるでしょう」

「楽しいことなんて何もない。浮気されて利用されて裏切られた」

「せん妄、そのストレスなのかな」

「わからない」

「時間もお金もその彼女に使って、子どもと私を蔑ろにしたからバチが当たったんじゃないの」

「言わないで」

「今もマッチングアプリしてるでしょ?なんか必死で痛々しいよ。大事にしてくれる人みつかるといいけど。私にはあなたがわからないよ」

「責めないでよ」

「責めてはないよ。私もあなたと別れてから長く付き合っていた人いるし、余暇を楽しむ恋人も大事だと思うよ。でもそんなにやつれて、眠れなくて、せん妄起こして、それでマッチングアプリで必死に女の子探してって、病的だよ」

「わかったよ。頭がおかしくて悪かったよ」

「あなた何をそんなにもがいてるの?ずっと。私と子どもから逃げてひとり自由になってやりたいようにやって思い通りの幸せな生活じゃない?それなのになんでこんな荒んで、おかしくなって、結局は私を頼って、何がしたいの?」

元夫は何も言わなかった。

瞳孔の開いた目で私をじっと見た。

病院に着くと取調室のような簡素な診察室に連れて行かれて30分ほど待たされた。

待たされている間に私はうとうとしてしまい、元夫は寝てる私をツンツン指で突いていた。

子どものように。

 

そしてこの日から3日後には口論の末に絶縁。

これも前の発病の時と同じ。

私とこの人はなんなのだろう。

「愛憎半ば」というが、あの人は私に愛なんてないと思う。

もうさようならと言ってLINEをブロックして着信拒否にしたら、向こうもそうした。

さよなら。

私はあなたが私の名前を呼ぶ声が誰に呼ばれるより好きだったよ。