子どものいる生活

息子のこと、夫のこと、私の生活のあれこれ。順風満帆。

ピンク色の小さな手袋

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忘れられない未明の風景がある。

それは児童公園に忘れられた小さなピンクの手袋と公園のところどころに残された黒ずんだ雪。

その日、私は婚約者の家から逃げ出し、ゆくあてもなく夜道を彷徨い歩いていた。

ちょうど今と同じくらいの時期、たしか1月だったと記憶している。

人通りのない大通り、歩道には前日に降り積もった雪が僅かに残っていた。黒ずんだ雪、誰かが作った雪だるまの残骸。

風呂上がりに思い立って家出を決行したから長い髪の先が冷たく湿っているし、化粧をしてない顔の皮膚が冷気でパリパリする。考えなしでこんなところに出てきてどうしようか。

黒ずんだ雪の上を歩くと凍って固くなっていた。寒い。

静かな街、誰も、誰ひとり通らない。この辺りは皆車で移動するから昼間も人通りが少ないもの。こんな時間に、残り雪が凍る寒い夜に人影があるわけないか。

当てもなく、でも勢いよく歩く。大きなお家、設備の整ったマンション、また大きなお家、児童公園。児童公園のベンチに座って凍えた指で携帯を操作して、少し離れた繁華街にあるネットカフェに目星をつけたのに、どうしてだか児童公園から動く気になれなかった。

ブランコ、馬とウサギの遊具、滑り台、砂場、ベンチが2台、それで全部の小さな公園。誰かが忘れたのだろう。ベンチには子どもの小さなピンク色の手袋が片方だけ置いてあって、この手袋に持ち主は今頃きっと暖かい安心な場所ですやすやと眠っているんだろうなと思った。

高台の小さな児童公園から1時間前まで住んでいたマンションを眺めた。大きなマンションには芸能人が何人も住んでいる、小説家や画家も有名な人が住んでいると斜向かいに住む奥さんが教えくれた。

そんなのどうでもいい。

あいつが住んでいるだけでどんな芸能人が住んでいようがあそこは私にとって忌む場所だ。

婚約者のあのニヤけた顔を思い出すと悪寒がした。

気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

「気にしすぎだよ」

「男はみんなしてることだ」

「君はいい歳して潔癖で世間知らずだな」

「浮気したわけでもないのに」

「心が狭いなあ。それじゃあモテないよ」

浮気のほうがまだましだ。

お金で女を買うなんて。

しかもあんな高校生の制服のような衣装を着せて。

バイアグラまで取り寄せて。

もう40になるおじさんが。

ぞっとする。

「若い子にヤキモチ焼いてるんだろ。30代の女ってそうなんだよな。ばばあだもんな」

「ばばあ?あなたより7つ年下なのにばばあなの?不思議。私が風俗嬢が羨ましいと思っていると思っているの?」

「そうだろ。君は大卒だからそういう喋り方するの?可愛くないからやめたほうがいいよ。これはアドバイスね。怖い顔しないで、笑って笑って。女の子は笑顔笑顔」

言葉は通じなかった。

私は早々に相互理解を諦め、心中で別れを決めた。

そしてにっこり笑って「そうだね」と言った。

さよなら、2度と私の人生に関わらないでと思いながら。

穏やかな気持ちだった。

 

吐く息が濃く白い。

東の空がじょじょに明るくなってきた。

夜明け。

ピンクの手袋は持ち主が取りにくるだろうか。

婚約を破棄して私はこれからどうするのだろうか。

何もかもが茫漠としていたが、不安感はなく、心はしんと静かだった。

そして私はしんとした心のままで後日正式に婚約を破棄し、また他の人と婚約して結婚して子どもを産んだ。

今はその子の小さな手に手袋をはめて児童公園で遊んでいる。

婚約者は亡くなったと昨日知らせがきた。

かつての婚約者の顔はさっぱり思い出せないのにピンクの小さな手袋と汚れた雪は妙に精彩に覚えている。

そんなはずないのにあの公園のあのベンチには今もまだあのピンクの手袋があるような気がした。